『マティス 画家のノート』

●『マティス 画家のノート』という本に、1907〜9年頃のマティスの発言が載っているので見返してみたのだが、特に、この時期にタブローにあらたに付け加えられた、線描と、それに伴う塗りの平滑化については、具体的に語っているということはないようだった。面白かったのは、サーラ・スタインという人(マティスに絵を習っていた人らしい)がマティスの「教え」を記録した「サーラ・スタインのノート」に書かれていた次のような発言だった。
《目を閉じて、見た像を掴まえておきなさい。それから自分自身の感性で制作しなさい。モデルを相手にしている場合は、自分でモデルのポーズをとってみたまえ。力がはいっている箇所が運動の鍵だ。》
見ている対象と、それをキャンバスの上に描くこととの間に、像を捉えるために「目を閉じる」という行為(迂回)がひとつ挟まるということは、マティスの絵を観ているとすごく納得がいく。いったん目を閉じることによって、像がたんに視覚像であることを越えた、多様な「含み」をもつことができる。例えばセザンヌならば、特に「目を閉じる」ということは必要なくて、しかし勿論、ただ見るだけでは絵は描けなくて、毎日、モチーフを見続け、毎日、絵を描き続ける、という生活の時間を経ることのなかで、徐々に「像を掴む」(生活する時間そのものによって像を掴むしかない。)。愚直なセザンヌは、「目を閉じる」という「半歩後退」を受け入れることは出来ないのだろうと思う。しかしマティスにとっては、この「目を閉じる」ということが、非常に重要な(おそらく終世かわらない)制作の技法だったのではないか、と推測できる。それともう一つ、モデルと同じポーズを「自分でもしてみる」というのも、きわめてマティス的なことであり、これもセザンヌには想像が出来ないようなことなのだと思う。強引にぼく自身の関心に結びつけるとすれば、「目を閉じる」という行為は、主に色彩を媒介とした空間性にかかわり、「自分でポーズをしてみる」という行為は、主に線描による空間の把握と関係する、ように思える。(デュシャンが、マティスの色彩は、絵の前にいる時は把握できず、絵の前から去ってからその力が作用しはじめる、みたいなことを言っているのも、この「目を閉じる」ということと関係するように思う。)