2024-12-12

⚫︎まったく今更という感じだが、最近ますます、マネの偉大さを感じている。あくまで、サロンに入選する伝統的な画家であることを望み、自分は革命家になりたいわけではないと発言しながらも、ルネサンス以降の絵画を強く規定していた「遠近法」と「陰影法による肉付け」によって事物や空間を表象するやり方を、徹底して廃棄して絵を成立させることのできた最初の画家であり、一つのフレームの中に統合された一つの場を作り出すという価値観をも廃棄し、主題的にも、伝統的・歴史的主題と、社会的、政治的主題と、日常的だったり卑近だったりスキャンダラスだったりする主題とを同列に扱うということを大胆に行なった。マネは、セザンヌと並んで近代絵画で最も革新的・革命的な画家たと言っていいと思う。マネの中には、少なくとも20世紀半ばくらいまで絵画の展開の可能性のほとんどがすでに内包されているし、マネ(+セザンヌ)の存在が、19世紀から20世紀中頃までの絵画の方向性を決定してしまったとさえ言えるだろう。

もちろんそこには、ベラスケスやゴヤ、あるいは浮世絵などからの影響も見られるだろう。だが、それらの影響を別の次元にまで発展させた。

(たとえば、マティスセザンヌをしきりに礼賛するが、実はマティスは、セザンヌから得たものよりも、マネから得たものの方が大きいのではないかと、最近では思う。)

(セザンヌは、マネとはまったく違った在り方で、西洋近代絵画の中の異様な特異点で、ぼく個人としては、マネ派であるよりはずっとセザンヌ派なのだが。)

とはいえ、マネの実現した視覚芸術における革新的なものは、現在ではほとんど(それとは意識されないままで)共有財産となっていて、たとえばマンガやイラストを描く人ようなにも普通に使われている。だからこそ凄いのだが、しかし、だからこそその凄さは、現時点ではなかなか見えにくい。マネの絵について、「サロン」がなぜそんなにも強い拒否反応を示したのかという理由(感覚)も、今からだとなかなか見えにくい。

(ぼく自身、マネの凄さを感じられるようになるまでずいぶん時間がかかった。)

マネにおいては、絵画を構成する様々な要素は皆等価であり(たとえば、手法と主題という次元の異なるものでさえも等価であり)、それらはどのようにも組み合わせ可能で、しかもその構築にこれといった統一性は求められない。だからマネの絵には「これこそがマネだ」というわかりやすいスタイルはない。マネの絵には、根からの切断があり、そこからくる軽やかな自由度がある。それは同時に、軽薄さでもあり、シリアスさの無さ、でもある(対してセザンヌは、耐え難いほど重たすぎるしシリアスすぎる)。しかし、だからこそ「批評性」というようなものを積極的に含ませることも可能になる。

マネの絵を形作っている、諸要素の構成のあり方には、今もなお新鮮で刺激的であり続けるものが多くある。

(下の絵は、1868年の「アトリエでの昼食」。画像はWikipediaから。こんな奇妙な絵があるのか、と思う。)

https://en.wikipedia.org/wiki/Luncheon_in_the_Studio