●今日中になんとか終わるかなあと思っていたことが終わらなかった。期限までにはもうちょっとだけ余裕があるけど、明日には区切りをつけたい。
●作業の途中ですこし滞り、頭もぼーっとして眠気がさしてきたので、ドローイングをしてみる。絵を描こうとすると頭の動き方がかわり、しゃきっとする。いい感じのやつが何枚か描けた(はてなフォトライフの容量がいっぱいで、今月中はアップできないけど)。
●ドローイングをしていて、ふと、絵画にとって「陰影」は余計なものなんだな、と思った。陰影によって絵画は三次元に縛られ、陰影によって色彩が濁る。絵画は平面であることによって三次元を越え得る(マティス!)。しかし陰影はその邪魔をする。だから陰影に頼ってはだめなのだ、きっと(ピカソの弱いところは、どうかすると陰影に頼りがちになってしまうところではないか)。
●近代以降の絵画における「塗り」の平滑化(陰影の排除)は、絵画というメディウム自己実現(平面化)を目的とするものではなかった。抽象表現主義グリーンバーグの「モダニズム」はそこで間違えたのだと思う。それは絵画の四次元化(あるいは三+α次元化)のためのものだった(マティスだけではなく、マネも、モンドリアンも、セザンヌも)。しかしそれに気づいていたのはモダニズムを継承した「画家たち」ではなく、絵画を捨てたデュシャンであった。そして、十分な展開にまでは至らなかったとしても、晩年のポロックもまたそれに気づいていたはず(晩年のポロックが「後退した」というのはグリーンバーグモダニズム基準でしかない)。もしマティスが晩年のポロックを観ていたとしたら、そこに何かしら通じるものがあったと思う。そして、マティスポロックの間に何か通じるものがあったとしたら、ポロックはもう少し長く生きることが出来たのではないだろうかと思ってしまう。
(ピカソについては、ぼくはピカソは立体、というか半立体において最も良い仕事をした人だと思っていて、つまりコンストラクションやパピエ・コレ(極薄の半立体)が最も良い仕事で、それは三次元によって三次元を超えるというようなことで、平面によって三次元を超えるということの本当のところはよく分かっていなかったのではないかと思う(立体作品には「陰影」をつける必要がない)、ただ晩年に至ってようやく、そこに触れている作品がいくつかあるとは思う、キュビズムにしても、基本的に発想が立体で、立体を半立体として平面に落とし込んでいく感じだと思う、つまりピカソは三次元の空間把握力に優れていて、平面における三次元再現能力が高すぎるから、かえって、平面が平面であることの過激な特性に気づききれなかったのだと思う(キュビズムが多視点だとすると、マティスには視点がない、視点という概念が解体されている)、これを書きながら頭にはずっとエルミタージュ美術館展で観たマティスの「赤い部屋」があるのだけど、この絵をピカソはどう見たのだろうか、どう感じのだろうか、と思う、このような絵はピカソの頭の中からは出てきようがないと思う。)