⚫︎東京都美術館のマティス展がイマイチだったので、マティスについて語り損ねてしまった感じがあって、マティスについて語りたい欲が空回りしているような感じなので、ちょっとマティスについて語ってみる。1911年の「茄子のある静物」について。この絵について語りたいことは山ほどあるが、ここでは、ごく基本的な構造についてのみ語る。画像は「ART SINCE 1900」からスキャンしました。
この絵は、画面の大部分は「平面的」に描かれている。しかし、画面に向かって左下の部分だけが、あからさまに「立体的」であることが強調されている。床に置かれた板、暖炉、暖炉の壁の一面が、画面を斜めに走ってパースを作り、T字型の空間で奥行きを見せ、影まで描いて立体を強調している。テーブルの向かって左の縁も、パースがつけられた上、ナプキンがストンと落ちている側面も強調され、三次元的である。
テーブルの左右の縁の違いにも、この絵の特徴が表れている。向かって左の縁は、パースのついたテーブルの上面と、そこからストンと落ちる側面とが描き分けられているが、向かって右の縁では、テーブルの上面のみが描かれているように見える(側面を匂わせているのかな、という雰囲気がないわけではないが)。この二つの異なる視点は、マティスにおいては(キュビズムとは違って)シームレスにつながる。
また、鏡に映った鏡像の部分では、テーブルが立方体のように描かれ、床面なのか、斜めに走る面も描かれる。
屏風の上のエッジも、向かって左側だけは山形になって、軽く陰影のような操作さえされていて、ふわっとと立体感が匂わされている。
最も変なのは、鏡の前に立てかけられた「板」で、この板は、手前側の縁は明らかに「現実空間」に属しているが(つまり、鏡の前に立てかけられているが)、奥の側にある縁は、鏡像空間の中に入り込んでしまっている。この板は、実像であるとともに虚像でもあり、両者を媒介するような存在として描かれている。
この絵の向かって右側の大部分(左下以外の大部分)は、装飾模様以外のほとんどの要素は、水平と垂直、かつベタ塗りで作られていて、平面的であることが強調されている。実際、この領域にのみ注目して絵を観ているときは、平面的な絵に見える。
しかし、左下の部分に注目するや否や、画面は立体的、三次元的な空間性を帯びて、だいたい、丸で囲んだ領域内くらいでは三次元的な広がりがあるように感じられるようになる。
そしてさらに、屏風の裏に回り込んでいくような空間性さえも感じられるようになる。
全体としては、垂直線と水平線の交錯によって、静態的で安定した基本構成の中で、色彩と装飾模様が乱舞しているように見える絵だが、画面に不均衡と偏りをもたらす、斜め方向の動きが潜在的に仕組まれている。
(もちろん、これ以外にも、複数のフレームの分離と共存とか、見るべきものは色々あるのだが、まずはこの、平面性と立体性の衝突と共存が重要だと思われる。三次元上には決して再現できない立体性・空間性を作り出したということ。)
追記。これもマティスにはしばしばあることだが、暖炉がこのような角度である場合、当然、背景の壁は下図のようになければならないはずだが、背景はどこまでも正面を向いている。ここでもまた、相容れない二つの状態が重ね合わされている。
(鏡も暖炉も、上の部分は正面を向いているが、下は斜めになっている。ここで明らかに空間を歪ませつつ、その「歪み」を全く感じさせないという処理。)
セザンヌにおける、歪み方の異なる複数の「歪んだ空間」間、複数の「傾いた地軸」間のギシギシと唸るような闘争は、マティスのおいては多くの場合、二次元と三次元、あるいは、虚空間と実空間の共存と調和という形に翻訳されるように思う。二次元的調和の中に、あってはならない三次元空間要素が亀裂としてもたらされ、二次元的秩序を破壊に導こうとする、その破壊的な、崩壊的な状況の中で、とても繊細で微妙な調停的操作を通じて、二次元にも三次元にも解決しない、そのどちらでもあり得ない時空間を出現させる。しかしここで、セザンヌ的闘争とマティス的調和とは、どちらも異質なものの共立であり、言葉のイメージほどは遠い出来事ではない。
マティスにとって、具象を手放さないということは、三次元と重力を手放さないということで、それがある限り二次元には解決しない。だからマティスの絵は面白いのだが、晩年の切り紙絵においてもそれが維持されているかどうかは、微妙なところだと思う(維持されているものもあれば、ないものもある)。