2023/08/28

⚫︎マティスについて、もう少し。下の絵は晩年のドローイング、「立っている裸婦、黒いシダ」(1948)。画像は、2004年の西洋美術館でのマティス展の図録からスキャンした。今年のマティス展では残念ながらこの作品は観られなかったが、ぼくはこれがすごく好きで、2004年の展覧会では、おそらくこの絵の前に30分くらいはずっといて、色々考えていた。

まず、この絵の不思議な豊かさは何なのかと思いながら観ていた。ちょっとした濃淡はあるものの、ほぼ白と黒だけで中間のトーンのない世界で、しかも、太い筆でぐいぐいぐいっと描いているだけのこの絵が、濁りなく、単調にもならず、筆についたたっぷりとした墨の感触を想起させるような、ふくよかで豊かな空間を成立させているのはなぜだろうか、と。

それで気付いたのは、まず、前景のシダは、背景の白に対して黒い図として描かれているが、後景の人物とテーブルは、背景の黒の上に、白い図として立ち上がっていて、前景と後景とで、図と地が反転していること。ここで二つの層がはっきりと分かれていることで、白と黒の二色しかない、しかも精密に描写がなされているわけでもない絵の中が、ごちゃごちゃっと混乱せずに、キッパリとした層構造として見えてくるようになる。

そしてさらに、この二つの層をつなぐ中間的な役割として、背景のストライプ状の領域がある。ストライプは、黒を図としてみることもできるし、白を図としてみることもできる。この両儀的な領域が、キッパリと分かれた二つの層の緩衝地帯のようになっていて、空間(二つの層の間)に弾力というか、幅のようなものを生じさせている(床に打たれた「点」もストライプと同様の効果を持っている)。

また、前景のシダの複雑な形が、図と地との混乱を作りつつ、キッパリと図と地が分離するのではなく、互いに侵食し合うような複雑さを生む。

おそらく、これだけのことなのだと思う。これだけのシンプルな発明が、これだけシンプルな絵を、こんなにも豊かにする、というのが晩年のマティスなのだ。

(中間のトーンがなくても、画面をふくよかにし、単調にしないという点が重要。中間のトーンがないことが、白の美しさをこんなにも際立てるのだ。また、黒は、黒という「色」であって、決して影や暗さではない、という点も重要。)