●つづき、もうちょっと…。
精神分析的な意味での私(シニフィアンネットワークとしての身体)が開かれているというのは、(言語が私のなかで生まれるのではなく)私が特定の言語という環境のなかに生まれるから。私の内側は外側へと裏返って繋がっていて、私とはそのシニフィアン的配置のなかのある一点という「位置」である。だから、シニフィアン的身体は、開放系である大文字の他者(シニフィアンの集合)の内部で、その組み換えによって常に位置が移動し、その位置-意味を固定できない。私の位置は移動しつづけ、私の意味は組み換えられつづけるだろう。
一方、神経系としての私(神経系ネットワークとしての身体)は閉じていて、その位置は移動できない。メルロ=ポンティは、「私の肉」とは、決して「あそこ」と交換することのできない、(物理的な空間や時間に先立つ)根源的な「ここ」のことだと書いている。私とはつまり「ここ」のことであり、ここから外へは出られない(「ここ」という感覚そのものが神経系的な組織化によって可能になり、ある種の神経系の障害は「ここ」という感覚を失わせる)。
ある開かれた配置の上を移動し、それによって意味を生産し組み替える「私」と、「ここ」という位置に固定され、その周囲(環境)との関係(フィードバック)によってその内部に技術やフォームを自己生成する閉じた系としての「私」。ネットワーク上の位置としての私と、深さや内在性としての私。人間的「私」とは、このブレた二つの中心のまわりに形成されているものであろう。それはどちらも、通称イメージされる「私」や「身体」とは大きくことなる(例えば、どちらの私-身体もネットワークとその機能であり「形」がない)。
一方に、シニフィアンの連鎖⇔意味の往還としての私-身体があって、もう一方に神経系システム⇔技術の往還としての私-身体があり、それが紙の裏表のように背中合わせに密着しながら、根源的に分離させられている。それが人間における「私システム」だと言える。しかしその分離させられた二つのシステムが、分離させられたままで、リズムを媒介にすることで何かを交換し循環させることが出来るのではないか。「神経系—技術/--リズム--/意味—シニフィアン」という風に。それがここ数日で書いていることだった。しかしここで、両極にある神経系システムやシニフィアンの連鎖の方を「実体(基底)-リアル」として考えるならば、この二つのシステムのリズムによる接合は強引である(ある種の神秘主義的な飛躍がある)ということになってしまう。
だが、昨日の最後にスポーツを例にして書いたように、実戦(実践)とは常に技術と意味の混合状態として現れる。意味に汚されていない純粋な技術などありえないし(それはほとんど「物自体」のようなものだ)、技術をまったく必要としない純粋状態でたちあがる意味(イデア)もあり得ない。技術とは、シニフィアンの側から神経系の方を向いて見た時に見える「実践-リズム」の姿であり、意味とは、神経系の側からシニフィアンの方を見た時に見える「実践-リズム」の姿であるとは言えないだろうか。つまり、二つのシステムの中間で生まれる実践-リズムこそがリアル(実体化されないという意味での「リアル」)なものであって、そこから、一方で意味(図)--シニフィアンの連鎖(外へ向かうマトリックス)へと後退(拡散)して行くものがあり、もう一方で技術(図)—神経系システム(深さへ向かうマトリックス)へと後退(沈降)して行くものがある、つまり二方向へのベクトルがある、ということではないだろうか。
だとすれば、「私」とは実は、位置(意味)でも深さ(技術)でもないものであり、リアルとしての実践-リズムがたちあがるための「場」だということになる。あるいは、私は、実践-リズムがたちあがった結果としてあるだけだ、と。ここで、クレーが前景、中景、後景のなかで、中景こそが重要であり、そこが、無秩序のなかから秩序をみつけだす芸術家の仕事の場所だ、というようなことを言ったという、その意味が明らかになるように思う。それは、中景が前景(図)と後景(マトリックス)を媒介するというより、中景というリアルこそが、前景と後景を分泌し、生成するのだ、と。