●『輪るピングドラム』第12話。
ほぼ、そのまんま地下鉄サリン事件。しかも父が「犯罪組織の指導的幹部だった」というのも、予想通り過ぎて逆に意外なくらい。ただ、事件の具体的内容は明かされてはいないが…(爆破っぽい)。あと、父が二人いるみたいな(父と父がうなずき合う)妙なモンタージュがあった。いや、ポケベルに連絡入れる人も含めると三人かも…。
そう言われてみれば…っていう感じだけど、あのペンギン帽子の顔は例の教祖になんとなく似ている(ペンギン帽は神棚にまつられているし)。それに、四十歳以上の人なら、そこからオウムシスターズが選挙運動の時に使った、あの「象のかぶりモノ」を連想しもするだろう。ペンギン帽で変身した時の陽毬(プリンセス・オブ・クリスタル)が、白のハイレグのレオタード姿だというのも、「あの時代」っていうことなのだろうか(どうでもいいことだけど、一瞬だけ復活した岡本夏生はもう見なくなってしまった)。オープニングで流れている曲の歌詞も、そう思って聞くとすごく九十年代っぽい。
もう一方で、意外なくらい「銀河鉄道の夜」にも忠実であるようにもみえる。ジョバンニの父は北方に漁に行っていて不在なのだが、ザネリなどにお前の親父はラッコの密漁で捕まっているんだとか言っていじめられていた(高倉家の父は「南極環境防衛隊(あやしいネーミング)」に参加している、あるいは参加していた)。冠葉の胸に宿る「蠍の火」とか、ドボルザークとかも出てくるし。
●「ウテナ」では、「王子様にあこがれるあまり、自分も王子様になろうと思った」というエピソードが、ウテナという人物の具体的な来歴(歴史)の外にある「神話的な記憶(トラウマ)」として置かれていた。「ウテナ」は、トラウマとしての「運命」をどのように超えてゆくのか(そこへの執着から離脱するのか)という話でもあった。ウテナが、「王子様」による縛りを超えることが出来たのは、当の王子から発せられた「けだかくあれ」というメッセージに対して、オリジナルである王子以上に厳密であったことによる。ここには皮肉な逆説とともに、逆説を遂行する困難さがある。あるいは、ウテナによってより厳密な別の次元での「けだかさ」が創造された、とも言える。
だが「ピングドラム」では、自分という歴史の外にありながらも、具体的、連続的な歴史のなかに書き込まれた事件としての「運命」に対して、どのように対するのかということが問題になっているようだ。私がはじまるよりずっと以前から、既に世界ははじまっていて、私はその中の「どこか」に生まれる。出自とは、自分の出発点であると同時に自分の外にあるもの(自分が「はじまる前」の出来事)である。出自としてある運命は歴史のなかに書き込まれていて、歴史の外から作用する神話的記憶-トラウマのように「心理(「けだかくあれ」というメッセージ)」によっては解消されない。トラウマは、私の意識(責任?)以前に刻まれたものだとしても、しかし私という場所において刻まれたものだが、出自は、私の生まれる前に、私という場所に既に、私とは無関係にあらかじめ刻まれていた「ある配置」である。なぜ「わたくしという現象」が発生したのが、「あそこ」ではなく「ここ」であったのか。それはたんに位置の問題に過ぎないとも言える。だが、「あそこ」と「ここ」との差異を、私以前の世界が、歴史が既に決定してしまっているのだ。
だから、「ウテナ」も「ピングドラム」もともに「運命」を主題としているとしても、その位相が異なる。「ウテナ」における運命が「偶然の絶対性」のようなものだとすると、「ピングドラム」の運命は、そもそもその「偶然」の「条件の絶対性」、偶然のあり様があらかじめある範囲に限定されてしまっていることが問題となっている。この二つの作品の構造的な違いは、そこに由来すると思われる。
だから「ウテナ」において問題だったのは、物語であり、その改良であった。物語(欲望)のなかに既に書き込まれている権力構造や依存関係を解体し、より平等な関係(友愛)を可能にするものへと物語や欲望を繰り返し書き換えてゆく、その過程が、「ウテナ」という長大な物語であったと言える。
だが「ピングドラム」では、書き換えが不可能なある固定点(固有点)から「私」が出発しなければならないその位置こそが問題となっている。ある社会上、ある歴史上、ある配置上の一点に出自をもつ私は、その後どんなにそこから移動したとしても、「その点から出発した」ということは書き換えられない。自分が始まる前にあらかじめ決まっていた「それ」を歴史として背負わざるを得ない。それが様々な事柄を決定してしまうほどに、強い力を持つ。起源(オリジナル)の問題としての出自ではなく、歴史的な配置(あまりにも複雑で、かつ世俗的な関係性)の問題としての出自-関係-運命。「ピングドラム」が、地下鉄サリン事件という現実の事件、しかも非常に重大な歴史的事件を参照する必要があったのはそのためであると思われる。
だから確かに、「ピングドラム」が、地下鉄サリン事件を持ち出してこなければならなかった、そのことの「必然性」は認められると思う。しかしそれは、非常に困難な課題を背負ったということであると思う。
●陽毬が倒れてしまったので、晶馬の告白(晶馬と苹果の間に「あらかじめある」関係-因縁)についての苹果のリアクションがまだ描かれていないけど、そこが気になる。
●いままでも、様々な回想が現在に介入し、苹果による妄想が現実に介入し、ペンギンたちの行動が現実の出来事を変奏するなど、様々な虚構の層が多層的に折り重なるように展開してきたが、ここで「メリーさんの羊」という、今までになかった、神話的というか、メタ物語的な層が介入してきた。ただ、こういう「たとえ話」ってすごく単調になりやすくて危険な感じがする(「スタードライバー」でも、全体のメタ物語となる演劇部の芝居が超つまらなかった)。普通に考えれば「メリーさん」が高倉家の父(あるいは両親)で、女神の松明の灰というのは「犯罪集団」の教義あるいはその犯罪行為のことを指すのだろうけど、このたとえ話は「闇うさぎ」の登場を準備する(でもそれは、プリンセス・オブ・クリスタルの話で既に充分だろう)以外に、この物語に何かを付け足していると思えない。
ウテナ」の終盤では、こういうメタな話のなかにウテナがベタに入り込んでゆくのだけど、「ウテナ」の主題があくまで物語の書き換えだったから、それは適当だったと思う。でも、現実的なサリン事件まで持ち出した以上、もし今後、こういうメタな話の次元で何かを説明したり、解決したりするような展開になってしまうとしたら、それこそ村上春樹的な(かえるくん的な)罠にはまってしまうということになる。いや、まだちょうど半分だし、そんなことにはならないと思うけど。それに、主に参照されているのは宮澤賢治なのだし。
あるいは、このメタ話は、この物語のメタレベルとして機能するというより、この話がきっかけで晶馬の何らかの記憶が開かれる、という風な展開への布石としてあるのかもしれない。ここまで、すべての登場人物中で、最も無色透明で、受動的だった晶馬が、とうとう動き出す、ということなのだろうか。
●ペンギン、闇うさぎ、プリンセス・オブ・クリスタルやサネトシ(こいつが「ザネリ」なのか?)の衣装、などの白と黒の系列の世界に対し、高倉家のカラフルな色彩という対比がある。高倉家のペンギンたちが青くて、夏芽のペンギンのように黒くないことにも意味があると思われる。そうなると、病院も白と黒の系列の場所ということになるのだろうか。
●どうでもいいけど、高倉家の茶箪笥の上にボーリングの玉が飾ってあって『たまもの』を思い出した。