●『輪るピングドラム』第18話。うーん、今回は正直あまり面白くなかった。多蕗の過去はもっとふくらみがあるのかと思っていたのだが、時籠や夏芽の過去にくらべて、物語的にも表現的にも凡庸なところに落とし込んでしまっていて、ブラック多蕗というか、多蕗の裏面をここまで引っ張っておいてこれでは拍子抜けと言うしかない。一応「手」が主題の回だと言えるけど、その主題である「手」が導入される物語的根拠が(そして多蕗の「手の傷」という伏線の落とし方としても)これでは弱すぎると思う。
それに「こどもブロイラー」という形象が物語的な装置として曖昧というか、物語としてちゃんと作り込まれていなくて中途半端な比喩的表現にしかなっていない。いらなくなった子供→透明な存在→こどもブロイラーっていうところには、ひねりも独創も感じられない。物語的具体性が弱いし、心理的な表現としても冴えていない。物語上で実際に多蕗が「こどもブロイラー」という組織へと捨てられたのか、母親から見限られたことを示す心理的表現なのかが意図的に曖昧になっているのだけど、その曖昧さが表現的な効果になっていない(時籠の過去については、そのような混同=曖昧さが成功していたと思う)。論旨が弱い部分をマジックワードで逃げた的な感じになってしまっている。
(例えば「ウテナ」では、王子様という心理的な比喩・イメージが、現実と同等の強さをもって現実世界のなかにきっちりと入り込んでいて、それによって、比喩が現実化するとともに現実が比喩化して、どちらが主でどちらが従と言えない渾然一体となった作品世界となっていた。「ピングドラム」でも、時籠と父の関係においては、それと同様のことが成立していたと思うけど、「こどもブロイラー」は、比喩としても現実としても、どちらだとしても弱い。)
こどもブロイラーという形象が曖昧であるため、高いところの壁を破って多蕗を救出にくる桃果というイメージも、悪い意味で抽象的で(この救出そのものが、現実的な出来事なのか心理的な出来事なのか曖昧だ)、だから、多蕗と桃果の関係の「かけがえのなさ」が十分に出ていないと思う(これだと桃果は理想化された母親の代替物でしかなくなってしまう)。この救出のイメージは、「手」の主題と、焼かれる女としての桃果のイメージ、そして、陽毬を助けようとする冠葉の姿(イメージの類似性)から多蕗が「桃果」と同様のものを見出す、というイメージ上の関連性のなかに「はめ込む」ために無理矢理設定されたイメージにみえてしまう。
●まあ、多蕗というキャラクターが、ぼくが思っていた程に重要な人物ではなく、たんに苹果の強さを強調するために対照される「弱さ」を体現する人物でしかなかったということなのかもしれないけど。しかしそうだとしても、多蕗にも、もっとしっかりした輪郭をきちんと与えてほしかった。
●一方、今回でもっとも感動的だったのは苹果の強さだ。前半の暴走を通じて、苹果はこんなにも強い人物へと成長したのだなあと、しみじみ感じた。「ピングドラム」がこのまま、「苹果はこんなに立派に成長しました」というだけで終わったとしても(そんなことはないと思うけど)、それだけでも十分に素晴らしい作品だと思う。
●それにしても、陽毬はいつまでたっても覚醒しないなあと思う。陽毬の覚醒は、最後の最後までとっておく、ということなのだろうか。
●時籠や多蕗が高倉兄妹を憎むのは、彼らの親への憎しみ(過去)からであるが、夏芽が高倉兄妹を憎むのは、晶馬と陽毬の存在が冠葉に大きな犠牲を強いていること(現在)による。前者は、苹果的な強さによって乗り越えることが出来るが、後者は、それとは異なっている。夏芽は、マリオのためだけでなく、冠葉を救うためにも、陽毬の死を望むことになろう。