●『輪るピングドラム』第19話。とうとう陽毬が覚醒する。とはいえ、13話から16話くらいの展開がすご過ぎたためか、ここ2、3回の展開にはイマイチのれない感じがある。今回は絵もちょっと安定していなかった。だが今回までで、終盤の怒涛の展開への準備はととのったのではないかと思う。
●ここまでの19話では、前半は苹果と晶馬の存在が作品を引っ張っていて、中盤過ぎから、「あの事件」やサブキャラと思われていた人物たちのまさかの活躍(加えて東京スカイメトロの登場)などで作品世界がひっくり返るような驚きの展開がありつつ、その裏で冠葉がじわじわと苦しい立場に追い込まれてゆくという感じだった。ここへきて「運命」の問題は完全に苹果から陽毬へと移行し、これからラストに向けていよいよ覚醒した陽毬がどれくらいやってくれるのか。
●桃果という不在の特異点は、まず苹果に憑りついて、彼女の暴走を誘発し、その暴走の果ての覚醒を苹果にもたらした。次に桃果は、時籠と多蕗に憑りつき、二人の暴走を誘発したが、二人は覚醒には至らず道を誤った(時籠はまだどうなるか分からないが)。この違いは、苹果は桃果になろうとしたのに対し、時籠や多蕗は桃果を必要とした(再帰させようとした)という違いだろう。苹果は、桃果になろうとするという過程を通じて自らの欲望(望み)を発見するが、時籠や多蕗は「自分を選んでくれた」存在としての桃果を必要としており、そうである限り、それは「自分を望んでくれる人を望んでいる」にすぎず(それは彼らが「親」との関係で得られなかったものの反復的なやり直しとしてある、苹果はまさに「それ」をふり切ったのだ)、その経路からは「自分自身の望み」へと至ることはないだろう。時籠や多蕗は何故、自ら桃果になろうとしないのか。
●今回の陽毬の覚醒もまた、「自分を選んでくれた人」としての晶馬を見出した(思い出した)ことになる(こどもブロイラー→救出という経路はそのことを意味するだろう)。それはつまり、「陽毬にとっての晶馬」は「苹果にとっての桃果」ではなくて、「時籠や多蕗にとっての桃果」でしかないことになる。陽毬はここから、多蕗や時籠と違った経路を見つけ出すことが出来るのだろうか。
対して、冠葉は、特に「自分を選んだ(望んでいる)」というわけではない陽毬を望んでおり、そのために行動していて、それは、自分の望み(晶馬の存在)を発見した苹果と同じ位置にいることになる。前回の冠葉が、多蕗の目に桃果のイメージと重なって見えたのは、そのためでもあろう。つまり冠葉は「自分を選んでくれた人」というところに執着していない。陽毬が自分を選ぼうが選ばなかろうが関係なく、冠葉は陽毬(の存在、生存)を望み(勿論、選んで欲しいと強く望んではいるだろうが、その是非によって冠葉の行動がぶれることはないだろう)、その代償として自らの身を投げ出す。この作品における「蠍の火」とはおそらくそのことではないか。そのような冠葉(のなかの桃果)を見て、多蕗は自分の根本的な誤りに気付いたのではないか。
●自分の存在の根拠を、「自分自身の望み(望むこと)」に置くのか、それとも「自分を望んでくれる人の存在(望まれること)」に置くのかの違い。何かを愛することによって自分を確認するのか、何かに愛されていることで自分を確認するのかの違い。桃果の系譜にいる人物(今のところ苹果と冠葉)は前者であり、前者でなければおそらく桃果にはなり得ない。逆説的だが、「自分の望み」をもつ者だけが、自分の身を火で焼くことを自ら選び(つまり自分自身を自ら放棄し)、蠍の火を灯すことが出来る。だが今のところ陽毬は後者に近い位置にいると言える。とはいえ陽毬は長い眠りから覚めたばかりで、ようやく自分の過去を(再)発見した段階にすぎない。いわば、王子様に出会った時点のウテナの位置にようやくついたところだ。
●そして、未だ覚醒していない最大のキャラクターが晶馬だろう。彼の望みはどこにあるのか、陽毬なのか、家族の維持なのか、それとも苹果なのか。彼が何を望むのかによって、今後の展開が大きく左右されるのではないか。
●陽毬が覚醒せずに眠りつづけていることによって、陽毬・晶馬・冠葉の関係(捨て子たちの家族)は今まで安定していた。冠葉の自己犠牲は、その安定を維持させるためのものであるし、晶馬による苹果への協力もまた、そのためであった。それは、苹果の覚醒(苹果と晶馬との関係)が陽毬の睡眠(が持続していたこと)によってもたらされたということも意味するだろう。ということは、陽毬の覚醒は、この四人の関係の安定を根本的に破壊するものとなるであろう。それは、今後はこの四人それぞれの「自分の望み」がどこにあるのかが(それぞれのその強さが)試されることになるのではないだろうか。そしてそこに、夏芽と時籠が加わるというけっこう壮絶な展開になるのではないだろうか。そして、サネトシがそこにつけいろうと虎視眈々と狙っている、と。
●ここで、様々な組み合わせの「3」が「2+1」という形であらわれるという構造が瓦解して、それぞれの「1」が問われる地平に移行するのではないか。これは「予想」ではなくて、「ぼくの望み」であるわけだけど。
●どうでもいいことだけど、すき焼きを食べる前にセーターに着替えたら、せっかくのセーターが汚れちゃうかもしれないじゃん、と思った。