●寒かった。DVDを観ている途中にいきなりひどい寒気に襲われ、しばらく震えがとまらず、熱でもあるのかと思ったが、たんに寒かっただけだった。
●見逃してしまっていた『クリスマス・ストーリー』(アルノー・デプレシャン)をDVDで観た。あまりに素晴らしかったので二度つづけて観てしまった。150分の映画を二度観て、たっぷり五時間『クリスマス・ストーリー』のなかにいた。デプレシャンのやっていることを認める人も認めない人もいるだろうけど、ここまでやってはじめて、いいとか悪いとか言えるんだよなと思った。そして実際に「ここまで」やれている作品や作家というのは、ジャンルを問わずとても稀なのだと思う。
一度目に観る時は、最初のうちは人物たちの関係がよく分からないまま混沌に近い感覚で次々やってくる場面や画面を受け入れることになるのだが、最後まで観て、とりあえず人物の関係と話の流れを掴んだ上でもう一度観ると、最初からものすごくいろんなことが仕掛けられているのが分かって、でもそれは、一度目に観る時に気づくのはほぼ不可能であるような形で埋め込まれている。それに、二度目に観る時には、あっ、こんなところにこんなことが仕掛けられている、といろいろ気づくのだが、それら数々の「気づいたこと」も、様々な要素が次々と流れてゆく二時間半の映画を最後まで観てゆくうちに半分以上は(夢の細部を忘れてしまうように)忘れてしまうだろう。
ここにあるのは、物語とか語りとかいうものではなくて、一挙に与えられる諸要素の諸関係というようなものなのだと思う。どの場面、どの人物、どの台詞にも、逆説と矛盾とイロニーが深く練り込まれていて、一色では塗りつぶせない複数の方向へ向かう力の混合状態としてある。つまり個々の要素のひとつひとつが既に、映画全体と同じくらい複雑なのだ。そのような要素たちが、別の要素と、関連付けられ、ぶつけられ、響き合わされ、対位法的に配置されるなどして、さらに複雑な関係が形作られる。この映画で語られる物語を要約するのは簡単で、要するに、母であるカトリーヌ・ドヌーヴ白血病が発覚してから、疎遠であり反目し合っていさえする息子のマチュー・アマルリックの骨髄液を受け入れ、生存率の低い移植を決意するまでの数日間、ということになろう。登場人物も、ほぼ家族に限定されている。シンプルな、空間的にも時間的にも人間関係的にもごく限られた出来事のなかに、世界全体と同等であるとさえ感じられるような様々な要素が複雑に織り込まれる。
でもそれは、デプレシャンではいつものことだとも言える。おそらく、同一の場面を違ったやり方で何度も撮り直して、それを編集の段階で混ぜ合わせて一つの場面をつくっていると思われ、カット数がとても多く(そしてすべてのカットが「意味ありげ」で)、しかもカットとカットの間に小さな断絶が埋め込まれていて、つまり一つの場面が「一つ」ではないようにキメラ化されている。さらに今回とても目立ったのだけど、クロスカッティングというのか、二つの場面が断片化されて同時進行するというモンタージュが多用されていた。いや、悪く言えば「そればっりかやってる」と感じるくらい、二つの場面の同時進行(一つの場面が別の場面によって分割される)が多かった。印象で言えば、分析的キュビズムを最も過激に推し進めていた頃のピカソみたいな感じ。一つ一つの要素は時にわざとらしいと感じる程の意図的な「狙い(意図)」が込められているのだが、あまりに多くの「狙い」が込められているのでそれらが乱反射して、全体としては混沌に近い印象を受け、とはいえ、物語としてはシンプルなのだ。目の前で起こっていることは分析的キュビズムみたいなのだが、全体としての印象は十九世紀の小説みたいだ、というのか。
(あと、音楽の使い方がすばらしいと思った。ぼくは音楽には疎いので、映画の音楽は「音」として聴く傾向が強いのだが、デプレシャンの映画からはいつも「音楽」として聞こえてくる感じがする。「あー、いい曲がかかっている」という感じ。)
繰り返すが、とはいえこの映画は「語り」ではないと思う。まず一つのことが示されて、それに対して二つ目があり、三つ目、四つ目と発展し、積み重ねられてゆくという風に継起的な流れが作られているのではなく、様々な要素がそれぞれ自己増殖的に発展し、絡み合った総体が(時間とは別の秩序で)あって、それが映画というメディウムの都合上、継起的に示されているだけという感じ。だから、はじめて観る観客にはどうやってもこのカットの意味は分かるはずがないというカットも、全体との関係からここに置かれていなければならないという風に置かれている。つまり観客に対する語りの効果とは無関係な、諸要素間の関係による必然が優先されている感じ。