●昨日、今日と、そして多分明日も、必要があって、一日中ずっと部屋で映画を観ている。しかし、必要(目的)があって観るというのは、映画に対する態度としてどうなのか、という思いがあり、必要があって観る映画とは別に、罪滅ぼしに(自分への言い訳的に)、なんとなく観たいと思って借りてきた映画とを混ぜて観ているから、「作業効率」としては著しく悪く、結果として、一日中ずっと観ていることになる。
必要があってといっても、選択はぼくの希望にそったものなので、この機会に、前に観てからかなり時間が経っている映画を観直してやろうという感じでもある。今日、観た、必要ある系の方の映画は、『リトアニアへの旅への追憶』、『まぼろしの市街戦』、『壁のなかに誰ががいる』、『白い肌に狂う鞭』で、なんとなく観たくて観た系は、『み・だ・ら』(鎮西尚一)、『シロメ』(白石晃士)。こんだけ観ると受け入れ可能な容量がめいっぱい。
●『み・だ・ら』。冒頭の路上のカットから、男の自宅のリビングとキッチンの場面までの画面の連鎖が、すっごいキメキメで、おおっと思って、このテンションでずっと行くのかと思ったのだが、全編、キメキメということでもなかった。むしろ、キメキメのフレームのなかで、そこでどう外した呼吸をつくってゆくのか、みたいな感じ。キメキメでもなく、ゆるーくでもなく、掴もうとするとふっといなされるというか、決まったフレームがあって、その内実がすっと抜き取られるように動いて、次の場面やカットにパッと移動する、みたいな感じ。
全編を通じて、伊藤猛の籠もったような声−喋りと細長い身体、葉月蛍の抑揚無く場違いなほどくっきりした声−喋りとどっしりと太い身体、の対比がすごく印象に残る。この映画では、二人は決して互いの身体に触れることはないのだが、映画として関係−接触しているのは、この二人なのではないか。沖島勲が釣りをしながら言うセリフ、「水中の生物であるウナギと地中の生物であるミミズがどうして出会うと思う、雨でながされるんだ」のなかの、ミミズが伊藤猛でウナギが葉月蛍であるかのようだ(脚本上では、港町に住む別れた妻である速水今日子の方こそがウナギなのかもしれないけど、映画としては伊藤−葉月の対比の方が鮮やかであるように思われる)。実際、伊藤猛は水に引き寄せられて、流されるように川から海にまで至る。とはいえ、女達(葉月蛍、速水今日子、内田高子、この三人が集まる場面はすごい)は互いの存在の繋がりを確認するものの、男は一人きりであり、海まで行き着いてしまえばその先はない。
葉月蛍と守屋文雄のカップルが二階屋に住んでいるのだが、まるで、その家には一階部分が存在せず、二階しかないみたいな感じになっているところとか、面白かった。
●『シロメ』。白石晃士にはちょっとハマりかけたのだが、『グロテスク』というのを観たら本当に最悪で、もうこんな奴の映画は二度と観るか、と思ったのだが(グロ描写が酷すぎて観るにたえないということだけでなく、作品としてダメだと思う)、なんとなく気になって、また借りて(負けて)しまった。これもかなり酷い。子供だましのやり口で子供をいじめて喜んでいるようにしか見えない(とはいえ、出演している女の子たちがどの程度演じていて、どの程度騙されているのかは簡単には分からない程度には仕組まれているのだが、しかし、そんなこと別にどうでもいいよ!、と思ってしまう)。『ノロイ』や『オカルト』では、ある程度面白いものだったフェイクドキュメンタリーという形式は完全に形骸化して、アイドルのプロモーションとホラーという安易なカップリングを、お手軽に成り立たせるためだけのものになってしまっている。ももいろクローバーとかいう、出演しているアイドルグループのファンでもない限り、馬鹿馬鹿しくてとても観ていられない。
しかし、最後に至って(と言いつつも、結局、最後まで観ているわけだが)、アイドルグループの女の子たちが、夜の荒れ果てた廃屋で(いろんな御札とか人形とか写真とか、いかにもな呪いアイテムが置かれた空間で)、照明も充分ではない真っ暗ななか(お約束通りに途中でカラオケを流す再生機も作動しなくなるなか)、恐怖におののきながらも、まったく場違いな自分たちの曲を一曲まるまる歌いきってしまうという場面を見せられると、一体なんなんだこの光景は、とわけがわからなくなって頭が混乱し、もしかしたらこれはちょっと面白いのかもしれないという思いがちらっと頭をかすめるのだが、それはきっと何かの間違いだと思う(下手をすると、また白石晃士を観てしまいかねない)。
●必要のある系で、持っているはずの『ざくろの色』のDVDがどうしても見つからなくて困った。新宿のツタヤには、たしかビデオがあったはずなので、借りにいかなくては…。