●『チェンジリング』(クリント・イーストウッド)をDVDで。この映画を観るのをずっと避けていた。もっとディープでヘビーな映画なのかと思っていたのだが、普通にイーストウッドの映画だったのでよかった。ちょっと、ほっとした。鼻の赤いアンジェリーナ・ジョリーがよかった。あと、例えば、警察のなかでも「いい人」というのはちゃんと信頼できそうな顔をしていて、顔を見るだけで分かるようになっている(といって、決して類型的ではない)というところとか、やっぱさすがだなあと思った。一個一個の主題をあまり深追いせずにさらっと流して、しかし最後にはそれらがかっちりとかみ合う。おそらくイーストウッドは、多くのことをスタッフや俳優に任せながら、ポイントを的確に掴むことで、無数の細部を複雑な構築物へとさらっと編んでゆく感じなのだろう。
ぼくには、最近のイーストウッドの映画を観るのはとてもキツく、苦しいことだ。例えば『ミスティック・リバー』はすごい傑作だと思うけど、出来れば二度と観たくないと思ってしまう。それは、そこでつきつけられている問題がとても重たく、シリアスなものだから、というのとは少し違う。
イーストウッドには明らかに、ある種の猟奇的な犯罪や、人が暴力的に傷つけられることへの抗しがたい愛着があって、それは反転して自分自身の身体を傷つけることへの愛着ともなるのだが、初期の作品ではその倒錯的な傾向があからさまに出ていて、だから、イーストウッドっで絶対変態だよなあ、とか思いながら気楽に観ていればよかったのだが、ある時期から、そのような倒錯的な傾向が、もう一方に強くある、イーストウッド独自の倫理的な問題や正義の問題の下に覆い隠されるような形になってきて、その部分がどうしてもひっかかってしまうのだ。いや、隠されるという言い方は正確ではなくて、『チェンジリング』にだって倒錯的傾向は露わにあるのだが、その「あらわれ方」に、どこがどうだとは上手く言えないのだが、どうしてもひっかかってしまう。
人がどうしたって受苦的な存在であり、否応なく傷を受ける者であり、それだけでなく同時に、他人に傷を加える者でもあること。そしてその傷跡-記憶から決して逃れられないこと。だからこそそこに(事後的に)責任が生じ、常にフェアであることが求められること。そして、そのような世界のなかで、人にどのような希望があり得るのか(あるいは、ないのか)ということ。これらのシリアスな主題を一身に背負った人物が、ある環境のなかでどのように行動するのか。おおざっぱに言えば、イーストウッドの映画とはそのようなものであると思うのだが、しかしそのような主題が追求される作品のなかに、暴力そのもの、その感触、その徴候、その気配が濃厚に漂い、観客は(映画作家)は、それをあきらかに楽しんでもいる。楽しむ、という言い方が適当でなければ、暴力に強く魅了されてしまっている。この矛盾を批判しているのではない。逆に、この割り切ることの出来ない矛盾の共存こそが、それが非常に高い緊張で成立していることが、イーストウッドの映画の「すごい」ところなのだと思う。
だから「ひっかかる」というのは、ぼくがその「すごさ」を受け入れ、それに耐えることが出来るだけの強さを持っていないというだけのことなのかもしれない。観ながら、ぼくは、どのようにそれを受け取ればよいのか、どのようにしてそこに居ればよいのか、わからなくなってしまう。最近のイーストウッドの映画を観ることは、すごく気が重いことで、それは、果たさなければならない責任だから、仕方なく、観ないわけにはいかない、みたいな感じなのだった。出来れば避けたいし、実際『チェンジリング』を観るのをずっと避けてきた。でも結局は、観ることになってしまう。すくなくとも、この「ひっかかり」の正体が、自分で納得できるようになるまでは。