●今年の始めに、事前の情報がほとんどないまま、なんとなく観に行った『亀』(池田将)という映画が面白くて、それを日記に書いたら、監督の池田さんと面識のある知人からメールがあって、その仲介で池田さんやその映画製作の仲間の方々と実際にお会いする機会を得られ、その仲間の方々の作品をもDVDで観る機会も得られた。それは『ヒネモステ』(柏田洋平)、『家族のいる景色』(川部良太)、『Real fiction』(刀祢平喬)といった映画で、それらの作品に共通している面白いことがあって、それは(『ヒネモステ』を除いて)監督自身が出演者の一人となって映画に出ていることだ。
別に、自分が監督した映画に自分で出るということなど珍しくないと言えばそれまでなのだが、でも、監督が自分自身のイメージに対してとる距離感が、いわゆる自作自演の監督たちとはかなり違っているように感じられるのだ。半分遊びみたいなちょっとした顔出し出演でもなく、自分自身を主題として撮るといったセルフドキュメンタリーのようなものとも違う。例えば、必ずしも主役として出るのではないにしろ、自分自身の身体のイメージがフィルムに刻まれることで、まるで自作に署名するかのような特異性を刻んでしまう自作自演の監督は少なくない(例えば、ゴダールとかイーストウッドとか北野武とかチャップリンとか)が、そういう感じとも違う。監督が、自分自身の身体イメージを、まるで他人を演出するように、他の俳優たちとまったく同等に扱っている感じなのだ。
『亀』、『家族のいる景色』、『Real fiction』には、すべて監督自身が主要な登場人物の一人として被写体となっているのだが、監督自身と事前に会っていたり、クレジットタイトルで確認したりしない限り、普通に観ていて、まさかその人が監督だとはまったく気がつかないだろうと思う。『亀』を観た後に、あの新聞配達のお兄ちゃんが監督だと知った時に、すごく驚いたのだが、この映画のような形で、監督が自分自身のイメージを他の俳優たちのイメージとまったく同等(等分)に扱っているような映画を、ぼくは他になかなか思いつけない。それはこの監督の特殊な才能なのかと思っていた。そしたら、『家族のいる景色』でも『Real fiction』でも、作風はそれぞれ異なるのだが、監督か主要な登場人物のうちの一人として出演していて(主要な人物であり、かつ、あくまで複数いるなかの一人なのだ)、しかも、自分自身のイメージを他の俳優たちのイメージとまったく同等に扱えているという点が共通していて、そこでまたさらに驚いたのだった。
『家族のいる景色』は内容的にはセルフドキュメンタリーとも言えて、監督が自分自身や自身の家族や住んでいる場所を撮っているのだが、しかしそれも、最後のクレジットで確認するまで、この男が監督自身なのか、それとも俳優を使ってフィクションとして撮っているのかは、観ているだけでは決定できない(最後に、クレジットで、ああ、あの人は監督本人で、父親も監督の父親だったのだなあと分かっても、では、この映画の内容がどの程度実際のもので、どの程度つくられたものなのかは、結局分からないのだが)。それはこの映画では、自分を撮影している(自分で自分の役を演じている)とは思えないような、不思議に突き放した客観的な距離感で、監督自身の像が捉えられているからだろうと思う。ドキュメンタリーだとしても、自分の家族を撮っているのではなくて、友達の家族を撮っているかのような距離感で撮られていると言えばいいのか。あるいは、自分の家族の話を、他人である俳優に演じてもらっているような距離感で自分自身の像を捉えている、というのか。この不思議な距離の感覚。
『Real fiction』については、映画を観るより前に刀祢平さんにお会いしていたので、ああ刀祢平さんが出ているとすぐ分かったのだが、そうすると逆に、この映画、本当に刀祢平さんがつくったの?、というところが疑わしく思えてきてしまうくらいなのだ。誰でも、自分の身体のイメージに関しては、ナルシシズムだったり自己嫌悪だったりがない交ぜになった特別な感情をもち、そこには他人の身体とは「別のもの」という「しるし」が貼り付いている。その「しるし」の貼り付いた身体を、監督として外側から制御し、操作しようとする時、いくら客観的にそれを捉えようとしも、どうしてもその「しるし」が映像のどこかに残留してしまうように思われる(勿論、それが必ずしも悪いということではない)。でも、この映画からはそういう感じがほとんど匂ってこないのが不思議な感じなのだ。『Real fiction』は映画として多少冗長なところがあるのだが、細部の描写が非常に魅力的で説得力のある映画で、しかもその描写が「自分」にも他人にも均等に向けられていることに驚かされる。自分のことをこんな風に描写出来るなんて、という、監督刀祢平と被写体刀祢平との分離の感覚。ここには、刀祢平さんの演技力とか、刀祢平さんの演出力といったものとはまた別の、自己像に対するある独自の距離感が作動しているように思われた。
この、自己像とそれを見ている自分との分離の感覚が、半ばフィクションであり、半ばドキュメンタリーであるような『家族のいる景色』と『Real fiction』に、たんにそのように仕組まれた作品ということを越えた、独自の不思議な感触を与えているように思われた。
『亀』、『家族のいる景色』、『Real fiction』は、すべて『ヒネモステ』の監督でもある柏田洋平によって撮影されていて、これらの映画を観ればカメラマンとしての柏田さんがとても優秀であることが分かるのだが、そのことが、監督たちが自分のイメージを突き放して捉えられることと関係があるのかもしれないとも思った。これらの作品の監督たちは皆、撮影者を信頼していて、撮影すること(見ること)に関しては、柏田さんに任せてしまっているのかもしれない。つまり、この場をつくり方向を示すのは監督である自分だけど、それを「見る(撮る)」のは柏田だ、という感じで。見ることを他人に預けているから、「自分で自分を見る」ことをそれ程意識することなく動くことが出来る、というのか。自分が演じていて、かつ監督であったとしても、撮影者の「柏田さんの視点」から見れば(その視点を想定すれば)、他の俳優と同等の、そのうちの一人である、というような見方が(監督のなかで)成立する、のではないか。このような複雑な視点=距離感が成立するのは、映画が複数の人たちの関係のなかでつくられている、ということに関係あるのではないだろうか。
●ここまで書いた後に、池田さんの『UFOさま』という映画をDVDで観たのだが、これが『亀』とまったく違った意味で面白かった。サークルの合宿に行ったついでに撮った、というのは言い過ぎだとしても、映画をつくるという口実で合宿に行った、みたいな感じの軽いノリでつくられたかのような映画。男の子だけのUFO研究会と、女の子だけの将棋サークルとが、宿舎の手違いで相部屋で合宿をせざるを得なくなるという話。とはいっても、それによって何か特別なことが起こるわけではなく(最後にすごいことが起こるのだが)、二泊の合宿がぐたぐたと過ぎてゆく様が、あくまでゆるい感じで描かれている。この映画が面白いのは、学生時代の彼らがどんなに幸福な環境=関係のなかで映画をつくっていた(あるいは、たんにぐたぐたと時間を過ごしていた)のかということが、ダイレクトに表れているところだろう(その意味でこの映画も半ばドキュメンタリーと言っていいのではないか)。映画を観ていて、なぜ自分がこのなかにいられなかったのか、と悔しく思われてくるくらいだ。全体として「男子ノリ」で、出て来る男の子たちそれぞれが皆面白いのに、女の子たちの方の面白さがいまひとつ引き出されてないところが惜しいと言えば惜しいのだが(でもその点は、『亀』ではしっかりと克服されている)。『亀』も『ヒネモステ』も『家族のいる景色』も『Real fiction』も、このような環境と地続きの場所でつくられたのだろう。そう考えると、映画は、たんにその時々の監督やスタッフ、キャストによってつくられるのではなく、それらを取り巻くもっと大きな、ある環境=関係のなかで熟成され、生み出されるものなのだなあということを、強く感じた。勿論、それはそれぞれの作家の才能や資質や能力が関係ないということではなくて、実際、これらの映画はそれぞれまったく異なった感触をもっている。だが、そのそれぞれの資質は、幸福な環境のなかでこそ育まれ、発揮された、ということではないだろうか。
(『UFOさま』は、普通に面白いので、テレビの深夜枠とかで、何の前宣伝もなくいきなり流れたりしたら、「なんかオレ、昨日の夜、偶然、すごいへんなもの観ちゃったんだけど、あれはなんだったんだ」みたいな感じで話題になるんじゃないだろうか。)