●『東のエデン』を観ている時、「これはきっと『攻殻機動隊』の「個別の11人」の話を意識的に書き直したものなんだろう」と思ったので、改めて『攻殻機動隊 S.A.C 2nd GIG Individual Eleven』のDVDを借りてきて観た。改めて観ても、これはすごい面白い。日本のアニメーションのエンターテイメントとしての質の高さは驚くべきものがあり、例えばもしこの話を、同等の規模で、同等の視覚的充実をもたせてハリウッドでSFXによって映画化したら、莫大な予算がかかり、よって、誰にでも分かるように物語を大幅に単純化せざるを得なくなってしまうだろう。そのような点からも、現在のアニメがオタクたちのためだけの占有物となるような方向に進んでしまっていることを残念に思うのだが。
「個別の11人」を観ると、明らかに『東のエデン』はその書き直しだと確信するのだが(例えば革命家であり英雄であり「不確定要素」であるクゼがセレソン№9の滝沢となり、「個別の11人」ウイルスを仕込んで騒動をプロデュースする黒幕の合田が、12人のセレソンのシステムをつくったミスターアウトサイドとなる。だとすれば公安9課は、「東のエデン」のプログラムをつくったサークルとなり、草薙素子は森美咲で、草薙を思いつづけるバトーは、森美に決して思いの届かない大杉ということになる。そしてアジアからの難民たちは二万人のニートたちになる)、しかし、「個別の11人」を観てしまうと、それと比べて『東のエデン』は、アニメ好きに譲歩しているというか、媚びているように思われる分、単純化されてしまっているというか、何歩も後退しているように思われる。特にラストは、「個別の11人」をつくった人(たち)がこれで満足しているとは思えず、ここで終わってしまっては、何故、わざわざあの話が「書き直され」なければならないのか分からなくなる。その意味でも、三月に公開されるという映画版はたんなる付け足しではないはずで、そちらにも期待したい。
●そのついでに借りた『涼宮ハルヒの憂鬱エンドレスエイトの1話から4話までを観たら、意外にも、こちらもちょっと面白かった。夏休みの終盤が延々とループするというネタ自体はすごくありふれていて何ということもないのだが、この作品の面白さは、同じ場面が何度も反復することによって、逆説的に、ひとつひとつの場面のなかの細かい細部の描写に「かけがえのなさ」のような感覚が込められてしまう、ということを図らずも実現してしまっている点にあるのではないだろうか。例えば、写真や映像に撮られて、後に何度も反復して見直すことが出来ることによって、その過去の一場面の、その時にそうあったという唯一性が際立って感じられる、というような。
それだけでなく、あらゆる細部が既視感としてあらわれることによって、それ自体としては意味のない細部にある重さ(濃さ)が与えられ、あるいは、同一の場面が微妙に異なるバージョンで繰り返されることによって、その微妙な細部の差異が、その都度「かけがえのなさ」として強調される。
涼宮ハルヒの憂鬱』は、原作の小説はそれなりに面白かったのだが、アニメになったものはぼくには面白くなかった。確かに、その舞台(空間)設定の面白さや細部の描写の精度はすばらしいものなのだが、しかし、それらの個々の要素がひとつの作品として組み上がるための何かが決定的に欠けているように思えた。それはたんに、涼宮ハルヒというキャラクターを動かすための世界を精密につくっているだけ、というように感じられた。しかし「エンドレスエイト」では、「同じ時間を何度も反復させる」という、たったそれだけのことで、あっさりと「作品」としての求心力を獲得してしまっているように思う。そして、それによって、細部の描写の精度が生きてくる。
とはいえ、つづけて観ると、4話になるとちょっと飽きてくる。それはたんに、4話の演出がイマイチであるせいなのかもしれないのだが。
●それにしても、ハルヒというキャラクターは何と孤独なのだろうかと思った。彼女は世界の中心にいて、世界の行方は彼女の「思い」にかかっている。そしてそのことを、彼女のまわりにいるSOS団の団員はすべて知っているのに、彼女だけは知らない。世界が彼女の直接的な影響下にある以上、彼女にはそれを知ることが許されていない。よって、彼女には、この世界を他の誰かと共有することは不可能である。ハルヒの孤独は、その対極にいる、すべてを完璧に認識していることで孤独である長門のそれよりも、さらに深いものであろう。それはとても痛ましいもののように感じられる(その痛ましさの点でだけ、ある人物の「思い」が時空を歪ませてしまうという意味でおそらく「ハルヒ」の原型であると思われる『流れよ我が涙と警官は言った』と響くものがある気がする)。