●がっつりと本を読むつもりで、鞄のなかにぎっしり本を詰め込んで喫茶店に出かけたのだが、席について最初に読み始めた、岩波文庫から出ているチェーホフの『子どもたち・曠野』の最初の三つのごく短い短編(「子どもたち」「いたずら」「聖夜」)を読んだら、それだけでもう、自分のなかのなにかを受け入れる器の容量がいっぱいになってしまって、それ以上は一行たりとも言葉を受け付けられなくなって、それから数時間、二階の窓際の席で外を眺めながら、ずっとぼーっとして過ごしてしまった。
チェーホフの小さな作品が内包するものの大きさは恐ろしいほどだ。というか、それは「大きさ」ということとは根本的に違う何かだろう。それは、目に見えないし、実際に触れることの出来ない何かに、ふと、指先が偶然に触れてしまって、一時、その震えで満たされる、という感じだろうか。「聖夜」で語り手が感じることはすべて、事情をよく知らない部外者が勝手に思い描いた幻影というか、たんなる勘違いに過ぎないのかもしれないのだが、しかし、実情がどうであるとかいうこととは関係なく、この時この語り手は、途方もなく貴重な何かに確かに触れているのだ。《今さらニコライに会えなかったのを悔やむつもりはなかった。ひと目見ることができたら、いま心にえがいているような面影は消え失せてしまっているかも知れないのだ。》
(この三つが並んでいるというところも、なんとも言えない…。「子どもたち」「いたずら」ははじめて読んだわけではないし、「いたずら」など、今まで何度か読んだけどいまひとつピンと来ない感じだったのだが、今日読んで、これが分からなかった自分はなんと鈍感で浅はかなのかと思った。)