2021-08-07

カフカの『審判』(岩波文庫、辻ひかる・訳)を読み返している(今日は第六章まで読んだ)のだが、普通にすごくおもしろい。ヨーゼフ・Kはクソ野郎だし、全体の構造としては悪夢的と言えるのだろうが、個別の場面のつくりは下品なコメディみたいだ。短篇ではそこまで表に出ていないカフカの(下半身的な)下品さが前面に出ているように思う。

遠近法的錯覚によって中央集権的に見えるが、実体的には中枢のないまま遍在している官僚的な権力が描かれていると言えるが、それは、主題というより「世界の地」であり、生の前提であり、カフカにとってのそれは魚にとっての水のようなもので、主題はむしろ、そのような水のなかでどのように泳ぐか(というか、どのようにしか泳げないか、どのように泳がされてしまうのか)という、その運動と運命のあり様の方なのではないかと思う。ヨーゼフ・Kは、世界の見取り図として「中央集権的な権力」という俯瞰図(秩序)を想定している(内面化している・自分自身も父権的で中央集権的な権力構造のなかでそこそこの位置にいると思っているし、権力構造に従った基準で他人を見下したりしている)が、いざ個人としての(職場の外の)自分が動いてみると、その見取り図はまったく役に立たずに失調し、出来事も人物も事物も、次々に行き当たりばったりに異物としてぶつかってくるばかりだし、だからこそ、彼の世界に対する目論見や予測は裏切られ、対処も行き当たりばったりになるしかない。目論見は必ず外れ、見通しが立たないので、思考を巡らす余裕がなく、脊髄反射のように行動してしまい、その結果、彼の下品さがどんどん露呈される。

とはいえ、隠された下品さが露呈するというよりも、とりつくろわれた表面的な体裁と、隠しようもない本性の下品さとが、どちらもあからさまに表面上にあり、表面という同一平面で両者がせめぎ合って、あちらが出たりこちらが出たりするという、不連続で、かつ連続的な運動としてヨーゼフ・Kという存在が形作られているいという感じか。この感じが、下品なコメディと感じさせるのだろうと思う。

(カフカは感情移入によってでは決して読めないだろう。しかし、『審判』を読んでいる「わたし」は、どこかでヨーゼフ・Kの下品さと共振している。夢のなかで出会う自分の下品さに愕然とするように、ヨーゼフ・Kの下品さに出会う。)

ヨーゼフ・Kは、たとえばバートルビーのような純粋でストイックな存在ではない(むしろ「バートルビー」の語り手の方に近いのかもしれない、語り手に近い人物---バートルビーの語り手の方がずっと寛容だが---でありながら、「世界」によってバートルビーであることを強いられてしまった、というか)。いわゆる、カフカ的方法で書かれた小説とカフカとを分けるものの一つとして、ヨーゼフ・Kが醸すなんともいえない下衆な下品さのリアリティというものがあるのではないか。