2021-08-06

ちくま文庫の「カフカ・セレクション」を読んでいて、息抜きに「訳者あとがき」(「Ⅱ」の柴田翔のもの)をパラパラみていたら、衝撃的なことが書いてあって、「知らなかった…」としばらく手が止まった。〔中庭への扉を叩く〕という、ごく短い作品(ぼくはこれを、カフカで一番好きなのではないかと思うくらい好きなのだが)にかんするコメントの一部。

カフカは長男で、夭折した二人の弟の下に、年の離れた三人の妹がいた。それぞれに幸福な結婚をした彼女たちは、長兄の死(一九二四年)を見送ったあと、長兄が経験せずに済んだ世界を生き、大戦末期にみなアウシュヴィッツで死んだらしい。》

これを読んで、『変身』のラストで、グレゴールが死んだ後、ようやく厄介払いができたとでもいう感じで、父、母、妹の三人で、電車に乗って郊外へ出かける、あの幸福そのものであるかのような外出場面の、そのまだ先に、さらに暗い未来があったのか、という思いで心が重くなった。以下の引用は『カフカ・セレクションⅢ』(浅井健二郎・訳)の「変身」から。

《そのあと、もう何か月もやっていなかったことだが、三人打ちそろって出かけ、電車に乗って街の郊外に向かった。乗客は彼ら三人しかいなかったが、車内は暖かい陽光にくまなく満たされていた。ゆったりと座席にもたれて、彼らは将来の見通しのことを語り合った。(…)電車が目的地に着いて、娘が最初に立ち上がり、その若い身体を伸ばしたとき、二人にはそれが、自分たちの新しい夢と善き意図が真実であることを証明してくれるもののように思われた。》

(このラストは、カフカがブロートに語ったといわれる言葉「たっぷり希望があるのだよ、数限りないほど多くの希望がね---だだしそれは、われわれのためのものではないのだ」の、ポジティブな形象化だと思っていたのだったが…。)

東工大の講義のカフカ回では、カフカの断片や掌編をいくつか示して、「カフカの手触り」のようなものを感じてもらった後で、短編を一つ選んで、それを最初から最後までがっつり読むということをやろうと思っていた。で、何を選ぼうかと読み返しながら考えていたのだが、短編におけるカフカは、掌編(断片)とも長編ともちょっと違っていて、抽象性が高く、息の長い論理的(概念的)なアクロバットをけっこう多用するので(読む側に息の長い関心の持続を要求するような感じがあるので)、読み慣れていない人にはかなりとっつきにくいかもしれないと思った。どちらかというと長編の方が、具体性が高くてきびきびと動きも多く、(これだけ長い分量を読まなければならないのか…ということを重荷として感じなければ)むしろとっつきやすいのではないかと思えてきた(ただ、長編では登場人物の喋るセリフがやたらと長い…)。長編(『失踪者』ではなく、『城』か『審判』)の、どこか短めの一章をまるごとがっつり読む、という方がよいのかもしれない。

(前回の小説的思考塾で保坂さんが取り上げていた『審判』の「第六章 叔父・レーニ」がおもしろかったので、これでもよいかもしれない。)