2021-08-13

●アマゾンのプライムビデオで『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観ようと思ったのだが、Prime会員しか観られないやつだった(カードがないので会員になれない…)。

東工大の講義のカフカ回は、最初に「村での誘惑」でスラップスティック的側面に軽く触れた後、『審判』第七章の後半(ヨーゼフ・Kと画家の対話場面)と「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族」を取り上げて、カフカ独自のロジック的側面を前面に出していこうという風に方針を固めた。改めてカフカをいろいろ読み直してみて、カフカの特徴はなによりも、うねうねとどこまでも論理的な記述を積み上げていくところにこそあるのではないかと感じたから。

『審判』もかなり理屈っぽい小説だけど、(悲惨な話なのに)快活な感じで楽しく読み進めていけるのだが、「ヨゼフィーネ」の論理的なねちっこさには圧倒されるものがあった。この小説を貫いているのはイメージでも物語でもなく論理で、その論理は、否定、反転、逆説(逆接)であり、それが、一つの文のなかにも、文と文との関係にも、エピソードとエピソードとの関係にも、くり返し、くり返し、仕掛けられている。仕掛けられている、というより、カフカは、まず何かを書いて、それと否定、反転、逆説的な関係にある要素をそこに付け加え、さらにそこに否定…を加えていく、ということを、様々なレベルで、延々とつづけることで、この小説を書いたのではないか。まるで、自然言語で書かれた長大な数式を追っていくようで、文庫本で40ページ程度の小説を読んだだけで圧倒されてぐったりとしてしまった。あらすじが言えない(追えない)のも、安易な寓意に収束されないのも、カフカがひたすら論理によって細部を繋げて、積み上げているからではないかと思う。ここで論理とは、全体を見通すような論理ではなく、パーツとパーツとを、その都度、否定、反転、逆説によって繋いでいくことによって、長大な(数学者の好まない、美しくない、ツギハギで不格好な)数式のようなものを作り上げるということだ。

とはいえ、全体としての「言いたいこと」がないわけではない。カフカの多くの作品においては、よそ者が、村的、共同体的な世界に触れるという出来事が書かれる。『城』や『失踪者』はモロにそうだし、『審判(訴訟)』は、いきなり逮捕されることで、それまで親しいと思っていた環境が外部化する。『変身』では、毒虫になってしまうことで「家族」に対してさえよそ者になってしまう。だけど「ヨゼフィーネ」は、共同体の内部の者の視点(どちらかというと歌姫反対派)から、自らの一族と、その一族の特権的な存在である歌姫が描かれる。共同体にとっての歌姫の重要性、共同体と歌姫との微妙な関係、そして、共同体に対する歌姫の闘いと、その敗北。共同体は勝利し、歌姫は忘れ去られる。だからこの小説は、裁判所の側から描かれた『審判』であり、城の側から描かれた『城』だとも言える。

通常と逆側の視点であるからこそ、ここでカフカは、容易に分かりやすいイメージや意味や解釈に解決されないように、徹底的に、論理的に「逆」を積み重ねる。読んでいて、あるイメージに納得しそうになると、それはほとんど常に、次のところで否定されたり逆転されたりする。~に非ず、~に非ず、~に非ず、と。だから、意味やイメージの流れ、物語的展開の流れにのって読むことができなくて、その都度、一行一行、前と後との論理的関係を確かめていくというようにしか読めない。だがこれは、たんに意味への着地を拒否しているのではなく、否定を限りなく積み上げることで、その隙間(余白)に出来る形を示そうとしているのだと思う。

この「圧倒されるほどのねちっこさ」を、なんとか体感してもらいたい。