2019-01-26

ウエルベック服従』を読んだ。ウエルベックはずいぶん前に『素粒子』のはじめの方だけを読んで、嫌な気持ちになってやめてしまって以来読んでいなかった。ただ、この「嫌な気持ち」とは一種の気分的な共振によって生じたものだろうし、だからそれは反転された共感とも言える。

小説を読む時に感じる文の抵抗のようなものをまったく感じさせずに、新書を読むようにすらすら読めた。『服従』は小説というより、毒を効かせた露悪的なジョークというようなものだろう。ヨーロッパの知的な階層にいる人たちによって行われる社交の場に、会話のネタとそれを活性化する「ざわつき」をもたらすために機能する。「本」はそのような目的によって書かれ、消費されていく。強い反感もなしくずしの共感も既に小説に先取りされてしまっている。

この小説をいくら読み込んでみたところで、意地の悪い「本音」の露悪と弄される逆説以上のものは見いだせないだろう。ただ、とはいえ、この露悪が誘発する「ざわつき」は、非常に深いところから発せられているように思われる。そもそも深いところに切り込んでくるリアルさがなければ「毒」として機能しないし、人々をざわつかせることはできない。この小説自体に内容はほとんどないが、この小説が誘発する不安やざわつきには、強い現実的な根拠があるだろう。

この小説によって描かれているのは、ヨーロッパの---あるいは、われわれの近代の---行き詰まりによって生まれる、ある「気分」であって、たとえばイスラム教について、具体的に特に興味深いことはなにも書かれていないと思う(イスラム教は、ただ「逆説」として使われているだけではないか、というか、たんなる中身のない逆説であるからこそ政治的に機能するということかもしれないが)。とはいえ、この小説を読むことによって、われわれがそのような「気分」のなかにいることは自覚されるだろうし、そのような「気分」が必然的に生まれてしまう現実のなかにいることも自覚される。

そのような「気分」が必然的に生まれてしまう現実を自覚することは重要だ。ただ、ここで「毒」は、批判というよりも(苦みと諦めを含んだ)共感として作用する。というか、そのように作用するしかないということが書かれる。反感もまた、共感の反作用でしかない。そもそもこの小説は、何かを「批判する」という行為が機能しなくなってしまっているという事態を描いていると言える。

ただ「正しい」ことを言いつのってもどうにもならない(批判は機能しない)。とはいえ、もはや「やれやれ」と言って済ましていることができないくらい状況は切迫している。だとすれば、(個として「この人生」を悪いものではなく過ごすためには)なしくずしの肯定以外にあり得ないのではないか、と。「やれやれ」の一歩先には、なしくずしの肯定として要請される「神」の必然性がある。

(だが、この「なしくずしの肯定」を享受できるのは、きわめて特権的なごく一部の男性に限られる。必ずしもそうではないのかもしれないが、この小説では、そのような特権的な「ぼく」の視点からしか描かれない。つまり、個としての「ぼく」の人生の選択の問題であり、この「ぼく」と代替可能な「ぼくたち」である---そうであることに「居直る」ことが可能な---実在する読者の共感をあてにしている。)

(この小説ではあくまでも個としての「ぼくの気分」こそが重要であり、個としての「ぼくのこの人生」を救うために、個としての「自由」や「人権」を捨てて、神に服従するのだ、という逆説がある。神---教義---への服従が、利己主義によって導かれる。)

仮に、このような結論が妥当なのだとしても、この小説ではその「なしくずしの肯定」のありようが、具体性と密度とをもって描かれているわけではない。「神」や「なしくずしの肯定」を受け入れたとしたら、なにがどうなるのか具体的には分からない(個としても、社会としても)。描かれるのは、そこへと誘い込まれる---追い込まれる---状況設定と、そこで生まれる気分だ。

この小説は---逆説を弄した---露悪的なジョークであると同時に一つの「問題提起」と言えるかもしれない。ただ、この「問題提起」は、はじめから、曖昧な共感か強い反感しか生みようがない形でなされている。つまり、「毒のあるジョーク」にはもはや「批判(あるいは抵抗)」という機能はないということを自ら示しているようなジョークとしての「問題提起」だろう。

●この小説が提起しているものにまったく意味がないとは思わないのだけど、この小説の音調に納得することはぼくには出来ない。ウエルベックみたいにならないようにするにはどうすればいいのかという問題への取り組みは切実であるように思われる。