2023/09/09

⚫︎巣鴨で、小説的思考塾 vol.13、対話篇〈保坂和志伊藤彰彦〉。伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史』の著者。今回も、以下は、話を聞きながら考えたことで、対話の内容の紹介や要約ではないです。

⚫︎まず、伊藤さんが言っていた「15年くらい前のリーマンショックの頃に比べて、刑務所の受刑者が半分くらいに減った、特に粗暴犯が減った」という話が印象的だった。確かに、ぼくの肌感としても、昔の人はとても激しくて荒っぽかった。リーマンショックよりもっと前、80年代くらいだと、喧嘩とかカツアゲとか刃傷沙汰のようなものがありふれていた。青春ドラマの紋切り型として、散々殴り合った後に「お前、やるじゃねえか」みたいになって友情が芽生えるというのがあったし、痴情のもつれで女性が男性を刃物で刺すみたいな話もよくあったように思う。今ではほぼ否定的な意味で使われるが「体育会系的なコミュニケーション」が主流だったし、ヤンキーがスクールカースト最上位で、男性は常にマウントを取り合うようにして男性性を誇示していないと端的に舐められた(例えば、カツアゲの標的になるなど)。ぼくはそういうのがずっと嫌だったし、今の風潮の方がずっと居心地がいいのでノスタルジーはないのだが、暴力的な空気が退潮した一方、(これはぼくの印象だが)人を騙す、他人を自分の欲望の手段として使うことに躊躇いがない、ような人が増えたという感覚がある。

⚫︎前にも書いたが、現在の「正義」が持つ息苦しさは、正義が他者の尊重というよりもリスク管理の問題になってしまっているところからくるという側面もある思う。おそらく、現在のビジネスエリートは、一見効率が悪いようにに見えて、実は「政治的な正しさ」に従うことが、リスクを軽減するのに最も効率が良いことだと知っているから「政治的な正しさ」に従う、のだと思われる。相互監視のようにして「正しさ」を要求し合う世界の中で、リスクを最小化するために実現される「正しさ」。結果として「正しさ」が実現され、救われる人がいるのならば、それで良いのではないかと思う反面、目的としての正しさを持たない(目的は「他者の尊重」ではなく「リスク管理」になっている)結果としての正しさが、「正しさ」のありようとしてどうなのか、とは思う。

(おそらく、今時のちゃんとしたビジネスマンは、パワハラやセクハラに関する研修を受けるだろうが、それは、善い人として生きるためになされるのではなく、ビジネスマンとして必要なスキルだからなされるだろう。それのどこが悪いのかと言われれば、けっして「悪く」はないのだが。)

また、それはエスダブリッシュメントなエリート的正しさであり、グローバルな資本主義によって実現される正しさで、そのような層(人々)への反感や憎悪が、逆張り的な「政治的な正しくなさ」の露悪的強調にもつながるだろう(ヒラリーが嫌われてトランプが勝つ、ように)。その露悪的逆張りは誰の得にもならない(逆張りしている人をも救わない)ので、明らかによくないのだが、そこにあるエリート的な正しさへの疑念や反感は正当なものであるように思う。

⚫︎相互監視のようにして「正義」を要求し合う。そのこと自体を間違っているとは言えない。というか、弱者の権利を守り、権力の横暴を抑えるやり方としては、それくらいしかないとも言える。しかしそこにはどこか密告社会に似た感触が伴ってしまう。これをどうすれば避けられるのか。例えば、正しさを他者への攻撃(私的な欲望としての攻撃)として使うとき、言っていることは正しいが、やっていることは正しくない、という場合があり得る。わたしにはその正しさを使う権利があるのか、という問いがあり得るのではないか。あるいは、その正しさをそのように使うことは正しいのか、という問いがあり得る。

⚫︎それともう一つ、これは既によく言われていることだと思うが、多くの人が「法の奴隷」のようになってしまっているということもある(奴隷は、自ら進んで奴隷となるだけでなく、しばしば他者に奴隷であることを強要する)。法に従えば正しく、法に背けば間違っている、という思考停止。そこには、そもそもその「法」が正しいのか、適切であるのかという問いが失われている(「アート無罪」は間違いとしても、芸術は罪/無罪の基準そのものを問うので必ずしも「法」に従わない)。それは例えば、最先端の専門家によって「正しい」とされていることが、本当に正しいと言えるのかという問いの欠如にもつながる。ぼくはそこに、教えられたものを「正解」として受け入れる「学校の優等生の思考」を感じてしまう。PCをネットに繋いでいる限り、あらゆるソフトがほぼ強制的にアップデートされるが、アップデートされたバージョンがその前のバージョンよりもいつも優れているとは言えない。かえって使えなくなることもしばしばある。とりあえずアップデートは試みるわけだが、基本的にはいつも疑いつつ、それをする。

(国家と個との間に、中間期な社会、ギルドや宗教的共同体、トライバリズムなどがなく、国家の法が個を直接的に支配するような環境において、国家に抗するものがリベラルな「正しさ」しかないとすれば、それは相当に危ういことだと思う。)

⚫︎「義」とはおそらく、共同体的な正しさである以上に「私的な正しさ」であり、その正しさは「わたし」という固有性と切り離せない(他人にそのまま当てはめられない)。あるいは、「わたし」が「誰(固有の人格・固有の魂)」を信頼して生きてきたのかという、属人的な領域にある。通常の場合は、国の法を守るし、市民社会の倫理に従う。しかし稀に、「義」と「法」、「義」と「倫理」とが食い違う場面が訪れる。ここで、「国」や「市民社会」よりも「義」を上位審級として生きるならば、法や倫理を逸脱し、国や市民社会を逸脱する行動に出る(その時は必然的に社会の中での位置を失うだろう)。このときの「倫理」が、市民社会の倫理ではなく、カント的な普遍的倫理であるとしても、それよりも私的な倫理である「義」に従うかもしれない。このとき「わたし」は、人間であることさえ逸脱するかもしれない。

「このわたし」が「わたしという固有性を生きる」ということは、普遍的な倫理よりも「義」を上位審級とする、ということではないか。

(精神分析に詳しい人はここでアンティゴネーを思い浮かべるのではないか。ヤクザ映画は大衆化されたアンティゴネーかもしれない。)

ここで間違えてはならないのは、逸脱が、義に従うことで結果的に起こるということで、「逸脱」そのものが目的ではないという点だ。昔あった安易な言説で、禁忌を踏み越えること、法を侵犯すること、良識を逸脱することそのものに価値があるかのように語るものがあるが、ここで言われているのはそういうことではないはずだ。「義」によって、覚悟を持って、しかし喜びと共に行動することで、結果として逸脱して、立場を、あるいは命を、失う。

とはいえ、「義」に従うことが必ずしも素晴らしいとは言い切れない場合もある。例えは、おそらくプーチンは「義」によって戦争を始めた。今では、戦争は、最も速やかに成功したとしても、得られるものに対して失うものが多すぎると考えられていて、だから紛争は絶えず起こるとしても20世紀的な戦争は事実上もう起こせないだろうと多くの人が考えていたし、ぼくもそう思っていた。しかしプーチンはそのような「合理性」を踏み越えてしまい、そのことで世界の合理性そのものを書き換えてしまった。

(ただプーチンの問題は、「義」の問題であるより、一人の人物に過剰に権力を集中させてしまうことの問題であるという側面がずっと大きいと思われる。)

⚫︎伊藤さんが、保坂さんがチンピラ役を演じた長崎俊一監督の『ハッピーストリート裏』のチンピラのことを「軽やかな足取りで死んでいくチンピラ」と描写した。この表現が、「義」を持つ者の生きる姿のポジティブなイメージとして適切なのではないかと思った(『ハッピーストリート裏』は観ていないので、あくまで「言葉」として)。

⚫︎伊藤さんが、映画というのはタイトルに名前も出ないような人々の善意を食い物にしてできているようなところがあると言っていた。良い悪いではなく、現実にそのようにしてある。芸術とフェアなトレードの原理の食い合わせの悪さというのがあると思う。無償の情熱はフェアなトレードと噛み合わない。しかし、その無償の情熱を、どこかの誰かが搾取しているという構造があるのは問題だ。ここに芸術というものの難問がある。芸術には前提として無償の情熱、無償の贈与があり、あらかじめ「フェアなトレード」が前提とされるところにはない。しかし、無償の情熱は簡単に搾取に絡め取られるし、搾取の構造は至る所に張り巡らされている。搾取を許さないために、あるいは持続可能であるためには、フェアな制度が必要だろう。ここに、無償の情熱とフェアなトレードとが両立可能であるのかという(ありふれているが解き難い)難問が立ち上がる。

伊藤さんは、「タイトルに名前も出ないようなチンピラ」のような人たちの映画への情熱が気になって、それが『仁義なきヤクザ映画史』を書くきっかけであったと言う。この本には、志をなすことなく、名をなすこともなく死んでいった多くの実在の人物のありようが書き込まれているし、フィクションの次元でも、ヤクザ映画には名もないまま死んでいく多くのチンピラたちが描かれる。そのような人たちの存在に注目することこそが、搾取のある、なしにかかわらず、そこに無償の情熱があることを認め、それを感じ、肯定することになるのではないか。

⚫︎しかしその上で、ぼく自身はもう少し「軽やかな足取りで死んでいく」ことに抵抗して、どうしたら生きていけるのかを考えたいが。