2023/09/08

⚫︎『仁義なきヤクザ映画史』(伊藤彰彦)を読んでいて頭に浮かんでくるのは中上健次という存在だ。中上健次には、「岬」『枯木灘』『地の果て 至上の時』という、自然主義近代文学の完成とその解体というような系列があり、もう一方に『千年の愉楽』『奇蹟』という、日本的マジックリアリズムの展開ような系列があるが、どちらも、戦後の社会の、アウトロー(被差別者、ドロップアウトした者)と資本と権力との間にある、対立していると同時に癒着してもいる複雑な構造が問題となっている。いや、問題というより、環境というか、出発点のようなものとして最初にある。この点については、大江健三郎よりも中上健次の方がビビッドであるように思う。

⚫︎『仁義なきヤクザ映画史』の第十章「ヤクザとマイノリティ――民族と差別が葛藤する」には次のように書かれている。

《(…)一般にヤクザの構成比率は、被差別部落民、在日コリアン市民社会からのドロップアウトがそれぞれ三分の一ずつであると言われている。つまりヤクザ映画を作るうえで、差別問題は避けて通れないのだ。》

⚫︎ただ、日本のヤクザ映画においては、この点は仄めかされる、匂わされる、暗示されるに留まり、あらかじめそのことが分かっている人にだけ分かるように描かれていることが多いと指摘され、それが、さまざまな社会構造が明示的に描かれる韓国のドラマや『ゴッドファーザー』などとは異なることが指摘される。

例えば、被差別部落民とヤクザの親近性について直接的に描くことは避けられる。

中島貞夫は、最終的に山下耕作監督が撮ることになる、部落解放運動家の伝記映画『夜明けの旗 松本治一郎伝』(七六年)の監督を最初に依頼され、解放同盟本部に当時、中央執行委員長だった上杉佐一郎を訪ねた。この映画を社会運動の「英雄伝」にしたがる上杉に対し、中島は「上杉さん、これヤクザものでやらしてくれ」と言った。しかし上杉は「それやんなきゃ本当は駄目だよ。だけど、駄目だ」と釘を刺したという(『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』)。上杉は、被差別部落出身者がヤクザと隣接する存在たらざるを得ないことを知りながら、その現実を描かれたくなかった。》

《「その問題をきっちりやんないと日本のやくざ映画の意味がないというのはどっかにあるわけですね。だけどきっちりは出来ない。匂いを出すっていうんですかね」と中島は前掲書で語っている。中島が志向したことは、同時期(一九七六年)に竹中労が唱えた「松本治一郎その人を『博多から筑豊炭田の川筋にかけて知らぬ者のない』暴れん坊・狭客・土建業者の大親分として」捉え直す(『竹中労の右翼との対話』現代評論社)という問題意識と重なるだろう。》

⚫︎また、在日コリアンとヤクザの関係は単純ではなく、戦後すぐは両者は対立していた。

《(…)一九四五年八月二十八日、日本本土に進駐したGHQは炭鉱、軍需工場などで労働を強制されてきた朝鮮人、中国人、台湾人らを解放した。「第三国人」と蔑称されながら、大都市の中心部に集まり、焼け残ったビルに事務所を構え、「戦勝国民」を名乗り、「朝鮮人連盟」や「華僑連盟」の看板を掲げる者も現れた。そして彼らの一部は、大都市周辺の倉庫や食料品を積んだトラックを襲撃し、略奪した物品を露店で売り、ヤクザや警察と衝突を繰り返す。》(←ここで書かれているようなことは加藤泰『男の顔は履歴書』で強烈に描かれている。)

《敗戦直後の神戸における戦勝窮民(=戦勝国民)と山口組の対決を克明に描いた映画が『三代目襲名』(七四年、小沢茂弘監督)である。中国人、台湾人、朝鮮人からなる戦勝窮民らはピストルや青龍刀を持ち、国鉄湊川駅を襲撃、略奪するが、GHQに拳銃を取り上げられた警察はなすすべがない。それをみかねた田岡一雄(高倉健)は、神戸市民を守るため「自警団」を結成する。戦勝窮民も田岡の首に一万円の懸賞金をつける。やがて彼らが湊警察署を襲撃するという噂が流れ、神戸市長、県警本部長、湊警察署長が田岡に警備を頼みに来る(史実を描いたこの場面に兵庫県警は激怒したと、脚本を書いた高田宏治は語る)。田岡はこれを引き受け、戦勝窮民と凄まじい銃撃戦を繰り広げる。》

《当時二十名余だった山口組と戦勝窮民の抗争は四八年まで続くが、「激しい争闘を通じて逆に心を通わせ、そしてある時はアメリカ占領軍に弾圧された朝鮮人をかくまったり逃したりしながら、在朝鮮人の戦闘的分子とも交遊を結び、それらを通じて在日朝鮮人を組内に吸収していった」と宮崎学は『近代ヤクザ肯定論 山口組の90年』で書く。》

⚫︎ここでヤクザ(山口組、田岡一雄)は、まず戦勝国民たちに対して市民を守る自警団を組織し、次に「警察を警備する」ことで権力に近づく。そしてさらに、在日コリアンとの激しい抗争の中で、互いが(社会から疎外される)似た立場にあることを認識し始め、例えばアメリカ占領軍というような大きな力に対して助け合ったりしているうちに、双方が合流するようになる、と。

『三代目襲名』については、十一章「山口組の戦後史」にもう少し詳しく書かれる。

《(…)高田(脚本家の高田宏治)は、田岡が服役中に、「こいつらは豚じゃ ! 」と虐待される朝鮮人(遠藤太津朗)を「朝鮮人だって同じ人間じゃ」と助けるシーンを描くことで、敗戦後、戦勝窮民たちに向けられた田岡の怒りが民族差別に根差したものではないことを強調する。また、田岡が救った遠藤太津朗が戦後、日本人女性を強姦し、恩を仇で返すように田岡に刃を向ける一方、田岡が所内で助けたもうひとりの朝鮮人(田中邦衛)は、田岡から受けた恩に報いるべく、遠藤の襲撃に対し、身を挺して田岡を守り、命を落とす。高田は対照的な二人の朝鮮人を登場させることで、人間は民族、出自ではなく、「義」があるかどうかだ、と書く。しかし、ここで抜け落ちているのは遠藤太津朗の朝鮮人の日本人に対する怨嗟の源である。遠藤は「恩義を知らない朝鮮人」としてだけ描かれ、遠藤の日本人に対する怨念がどのように降り積ったか、そして戦前戦中の日本人による朝鮮人徴用、民族差別などの罪科はここでは問われない。》

⚫︎ヤクザは一方で、権力と結びつき、労働運動、市民運動、左翼運動などを暴力的に弾圧して、権力から甘い汁を吸う。だが一方で、ヤクザ自体が、被差別者や社会からドロップアウトした者が存在できるための場であり、公共的な福祉からこぼれ落ちてしまうような領域をカバーする存在でもある。

以下、山口組三代目、田岡一雄について。十一章「山口組の戦後史」より。

《一九四六年に三代目として山口組を継いだ田岡一雄は賭博と麻薬を禁止し、各組員に職業を持たせ、賭場を収入源にしないヤクザ組織を作ろうとした。田岡の経営手腕とリーダーシップにより、五〇年代に山口組は湾岸荷役の下請けと芸能会社(神戸芸能社)の経営を生業として急成長を遂げる。田岡は湾岸労働者の待遇改善のために、労働省に足を運び、湾岸労働者が一泊八十円で泊まれる宿泊所を神戸港に建設させた。これは労働者への濃やかな心配りという福祉的側面と、労働者の確保という搾取的側面を併せ持ち、山口組の「民衆性」の内実を語る。(…)一方で田岡は左翼的な労働者による権利獲得運動とは対立した。》

《しかし、田岡は六〇年安保闘争後に、児玉誉士夫が反共の防波堤としてヤクザを組織しようとした「東亜同友会」には参加しなかった。六〇年代半ばになり、それまで田岡の後ろ盾になっていた大野伴睦河野一郎ら「党人派」の政治家が死去し、池田勇人佐藤栄作ら「官僚派」が主流になり、警察もヤクザの力を借りる必要がないほど治安力を増強させたことから、官僚と警察は山口組市民社会から締め出しにかかる。田岡は(…)「事業と抗争」「経済と暴力」の二本立てで山口組を運営していた。横浜港の湾岸荷役を仕切り、全国湾岸荷役振興協会の会長だった藤木孝太郎は副会長の田岡に、ヤクザをやめて事業に専念するよう意見した。しかし、田岡は「私のために懲役に行っている百数十人が戻ってくるまでは堅気になれない」と断った(藤木幸夫の証言。『ハマのドン』二三年、松原文枝監督)。結果的に、田岡がやめなかった「抗争と暴力」が山口組の名を落とす。》

《田岡が各組の利権獲得のための抗争を黙認したため、全国各地で流血事件が相次ぎ、一般市民は山口組への恐怖と嫌悪をつのらせたのだ。それは六四年から始まった警察の「第一次頂上作戦」に口実を与え、六六年から本格化する「山口組撲滅計画」に繋がってゆく。》

《田岡は六五年に心筋梗塞のため倒れ、療養を余儀なくされながら、「山口組は生まれや環境のために、あらかじめ可能性を断ち切られた者たちの、出口を失った情念や夢の結集点や」とけっして組を解散しなかった―-。》

⚫︎「湾岸荷役」と「芸能」もまた、市民社会から差別されていたり、市民社会からドロップアウトしたりした人を受け入れる職業だろう。