2023/09/06

⚫︎『北陸代理戦争』(深作欣二)をU-NEXTで。ぼくが映画を観るようになったのは七十年代終わりから八十年くらいの頃で、その時にはもう深作欣二は実録シリーズを作るのをやめていて、当時の深作欣二の印象は大味な大作(『宇宙からのメッセージ』や『復活の日』)か鬱陶しい文芸作(『青春の門』とか『道頓堀川』)を作る人で、否定されるべき旧態依然とした日本映画の「偉い人」という感じで、その最初の刷り込みが強くあったために、『仁義なき戦い』や『仁義の墓場』のような「本当にすごい深作欣二」に辿り着くまでずいぶんと遠回りをしてしまったという過去がある。『北陸代理戦争』は初めて観た。この映画は深作欣二の実録シリーズの最後の作品で77年公開。今から振り返れば、深作欣二はこの映画からわずか数年で、悪い意味での「偉い人」になってしまうのだなあ、と。

実録シリーズは、実在するヤクザをモデルにして、実際にあっったヤクザ間の抗争を描く。それも歴史というより近過去の出来事で、モデルとなったヤクザもまだ生きていて、抗争も進行形であるという中で作られるという、相当危ういことをやっている。主要な登場人物の殆どに実在するモデルがいて、そのモデルとなったヤクザも映画を観る。『北陸代理戦争』では、松方弘樹が演じた主役のモデルとなった人物が、この映画の公開後、この映画がきっかけとなって殺されるという事件が起こったそうだ。おそらく深作欣二はそれが理由で実録シリーズを作るのをやめる。

実際の抗争が下敷きになっているので、人物の関係や物語の進行が複雑で、物語としてきれいに進行するとは限らない。この映画は、松方弘樹が最大勢力のヤクザ組織に組み込まれることを拒否して、巨大勢力に歯向かう姿勢を見せるところで終わる。え、ここで終わるの、これからがクライマックスじゃないの、という感じ。定型的な物語ならば、松方弘樹がこの後どうなるのか(巨大組織に一泡食わせるのか、それとも押しつぶされるのか)が山場になるところだが、あくまで実録モノなので、フィクションとして勝手に山場を付け足すことができないのだろう。物語としてきれいにまとめる必要はないというところにも実録シリーズの強みがある。

(しかし、物語としてきれいに完結していないからこそ、その「つづき」として、松方弘樹のモデルとなった人物が実際に殺されたのかもしれない。)

勢力分布や力関係、その中に置かれた個の立場の変化などは複雑に推移するが、それを構成している個々の人物は、神話的というか、いわゆる近代的な内面性や倫理といったものとは異なる法や掟や倫理を内面化し行動しており、義理やメンツが重視され、暴力(例えば人を殺すこと)によって局面を変えていくことが肯定的に考えられている。良いヤクザと悪いヤクザとがはっきり分かれている高倉健鶴田浩二が出る定型的なヤクザ映画と違って、彼らは誰もが状況の中で汚いことも厭わずに、小狡く立ち回り、皆卑小であるが、それでも、気骨があり義を尊重する者と、ただ状況に振り回される者との違いはある(しかし、明らかに卑小な人物として描かれる者にも実在するモデルがいて、その人も映画を観るのだ)。状況の中で積極的に優位に立とうとする者もいれば、ひたすら利己的、自己保身的に振る舞う者もあり、ただ捨て駒として利用されるだけの者もいる。その違いは「器の違い」として表現される。誰もが状況に囚われる中で、利己的にだけ振る舞うのでもなく、他者に利用されるだけでもなく、何かしら自分独自の気概のようなものを見せる人物が主役となる。

彼には立身出世欲があるのでもなく、革命や改革のヴィジョンがあるのでもなく、ただ自分なりの「意地を通す」という意思があるのみだが、その「意地」こそが尊敬の対象となる。そこが巨大組織に属する「政治家」たちと相容れないところだろう。ここで『北陸代理戦争』の松方弘樹が特異なのは「家よりも土地」だと言い、福井という土地に強いこだわりが見られるところか。