小島信夫、ロッセリーニ、ブレッソン

小島信夫『寓話』の終盤の三分の一くらいを読み返す。DVDで、ロッセリーニ『イタリア旅行』と、ブレッソン『パルタザールどこへ行く』を観る。
●『寓話』の登場人物たちは、他人のことをいろいろと考える。ほとんど空想すると言ってよいくらい、その考えは飛躍し、一人歩きする。ここで人物たちは、誰かと実際に会ったり話たりすることによってというよりも、誰かについて考えることで、その人と共にいる。そして、誰かについて考えたこと、誰かについて思いながら長い時間を過ごしたことを、別の誰かに向かって、一生懸命に話す(というか「書く」)。この小説を支えているのは、他人について考えること、そしてそれを他人に向けて話すこと、に対する「熱さ」のようなものだと思う。小説家が、ある人物をモデルとして小説を描くことで、その人物について考え、モデルにされた人物もまた、その小説を読んで小説家について考える。モデルにされた人物は、「考えたこと」そのものを知らせるというよりも、あなたについて長い時間考えつづけているという事実そのものを示すような長い手紙を、暗号に組んで小説家に送る。小説家はその暗号を解いて、その手紙を自らが書きつつある連載小説の一部分として組み込む。(勿論、これら全てを小説家「小島信夫」が書いているのだが。)ここで、小説家にとっての(小説家によって考えつづけられた)「モデルとなった人物」と、モデルとなった人物によって考えられ、把捉された「小説家」は、共に虚構の人物であり、それぞれ、小説家やモデルとなった人物の内部で彼等と共に生き続けているものではあるが、それぞれが書かれ、互いに読まれて、交換されることで、実在するそれぞれの人物たちにも(そして彼等のなかにいる虚構の人物たちにも)微妙な影響を及ぼしはじめるだろう。そして、モデルにされた人物は、自分なりの「小説家」像を掴むために、自分の妹をスパイとして小説家に近づけようとし、そのスパイとなった妹の内部にもまた、彼女なりの小説家像が育ちはじめる。このようにして、「誰かによって考えられ、思いつづけられた別の誰か」が、複雑に反映し合いながら増殖してゆく。この小説は、そのような複雑な反映によって驚くほどの厚みを獲得しているのだが、しかし、この小説の中心にあるのはあくまで、人が「誰かについて考える」ことであり、その人の内部で「考えられた人物」と共に過ごす長い時間の感触だろうと思う。それは虚構の人物ではあるが、人はそのような虚構の人物と共に生きてゆくのだ、というような。
●『イタリア旅行』はまさに「現代映画の古典」で、今、改めて観直しても素晴らしい。ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちは、この映画を観ることで、自分たちにも映画が撮れると思っただけでなく、自分たちも「撮るべき何ものか」を持っているのだ、ということを発見したのだと思う。夫婦の諍い、イタリアの風景と遺跡、車の走行、を、おちつきのないぶっきらぼうなやり方で捉えただけと言える画面は、この時に映画が生まれたのではないかとさえ思えるものだ。
ロッセリーニの後に観たせいか、今のぼくにはブレッソンはちょっとわざとらし過ぎるように感じられた。この映画には、六十歳を過ぎたばかりくらいのクロソウスキー(『歓待の掟』や『バフォメット』を出版した直後くらいか)が出ていて、「おお、これがクロソウスキーか」という感じでそこばかり見入ってしまうのだった。クロソウスキーが、アンヌ・ヴィアゼムスキーを膝の上に乗せて話すシーンを観て、『台風クラブ』で、尾美としのりが、工藤夕貴を膝に乗せているシーンを思い出した。
●今日の天気(06/10/29)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1029.html