●『マンハッタンラブストーリー』八話まで。これすごい。一話と二話だけでやめなくて本当によかった。とはいえ、ぼくはこの作品の細部や一個一個のネタはあまり(というか、ほとんど)面白いとは思えない。だけど、構造と形式がすごい。観ていて次々と驚かされる。
●このドラマのそれぞれの登場人物たちは皆、様々な異なるレベルで、作者であり、演じ手であり、当事者(登場人物)であり、観客である。つまりある登場人物xは、誰かに対しては作者(出来事を操作し語る者)の位置にいるし、別の誰かに対しては演じ手(観客に対して出来事を表象する者)の位置にいるし、また別の誰かに対しては当事者(まさに出来事の渦の中にいる者)の位置にいるし、またまた別の誰かに対しては観客(出来事を認識する者)の位置にいる。同じ人物が、出来事のレベルによって、操作者(語り手)にも、演じ手にも、当事者にも、観客にもなる。
例えば、森下愛子が演じる脚本家は、劇中劇となるドラマの作者(脚本家)であり、喫茶店のマスターの頭のなかで繰り広げられる恋愛模様では「C」という登場人物であり、声優と年下のダンサーの間で揺れる恋愛の当事者であり、人から(特に小泉今日子から)恋愛話を聞き出そうとする観客である(さらに、自分で書いたドラマの観客でもある)。あるいは、松岡昌宏が演じる喫茶店のマスターの場合、彼の店で繰り広げられるABC…たちの恋愛模様(出来事)の観客であると同時に、それを自らの心の声(ナレーション)で語り直すことで表象を組み立てる作者でもあり、彼自身も「A」に恋する当事者であり、また、彼が不在の店で客たちの噂によって語られる(八反万次郎という架空の名をもつ)登場人物でもある。あるいは、「心の声」とは別の(マスターという役割から切り離された)「顕在化した謎の声」として状況に介入(操作)しようとするという意味でも作者であろう。タクシー運転手である小泉今日子は、自らの過去の不倫の物語を繰り返し他人に語る作者であり、マスターの心の声によって語られる物語では最初の登場人物「A」であり、ダンサーに恋する当事者であり、森下愛子が脚本を書くドラマの熱心な観客である。だから、この作品のなかには、「作品内作者」の数だけレベルの異なる虚構のフレームが重層しているし、一人の登場人物がいくつもの異なる虚構の層に、異なる役割で属してもいる。そして、このフレームの重層は物語の発展に応じて変化してゆき、常に流動的でもある。まずこの、複雑なフレームの操作がすごい。
●このドラマの主役である喫茶店のマスターは劇中の「現実」ではほとんと喋ることが無いが、しかしこのドラマは彼のナレーションで埋め尽くされている。そして彼が(ナレーションではなく)作品内世界で饒舌になるのは、マスターという役割から切り離された「無名な謎の存在」となる時だけである。
松尾スズキが演じる声優は、声と存在の分離をあらわす。彼は喫茶店の常連であると同時に、刑事コロンボ(の声)であり、CMのナレーターである。彼がいない時にもテレビから彼の声が聞こえるし、目の前で彼が喋っているのに、彼としてではなくコロンボとして喋っていたりする。このような声と存在の分離は、無口でほとんど喋らないという設定のマスターが、ナレーションとして常に喋りつづけているというこのドラマのあり様の作品内での一つの変奏でもある。つまり、作品というフレームがあり、その内部に「作品というフレーム」を模倣するようなスケールの縮小されたフレームがある。
●あるいは、船越英一郎船越英一郎の役で出ている。彼は当初、劇中劇のドラマの出演者としてだけ登場する。つまり、喫茶店のテレビ画面のなかにだけ存在している。ドラマ内のドラマという二重化された虚構のフレームの内部にいる俳優が、ドラマの外の現実世界に存在する俳優と一致した名前をもつというのは一見して捻じれている。しかしここでは、船越英一郎は、現実の世界でも、ドラマ内の世界でも、「テレビの向こう側にいる存在」であるという点では一致している。松尾スズキが演じる声優は、演じられたドラマ内の人物として「声優」であるから、テレビ画面の中にも、その外(喫茶店)にも出没するが、船越英一郎は「船越英一郎」であるから、テレビの中にしか存在しない。これは虚構としては矛盾がないとも言える。しかし途中から、船越英一郎役の船越英一郎がドラマ内の現実(喫茶店)にも登場し、物語にも絡んでくる。森下愛子は「千倉真紀」という脚本家であって森下愛子ではなく、松尾スズキは「土井垣智」という声優であって松尾スズキではない世界に、船越英一郎である船越英一郎が出現し、それだけでなく虚構の人物たちと積極的に関係をもつ。これだけで虚構の空間が少し歪み、この作品(このドラマ)とその外というフレームが揺らぎ、相対化される。船越英一郎が、串刺しの串のようにフレーム(作品)内と外を串刺す。
さらに、この船越英一郎役の船越英一郎は、主役であるマスターと役割を交換する。このドラマの物語の七割くらいは、マスターの「心の声(ナレーション)」によって語られる。つまり、多数存在するこのドラマのドラマ内作者たちのなかで、マスターがもっとも強力な「作者」である。最強のドラマ内作者であるマスターが、ドラマ内作者である位置を降りようとする時に、(マスターが、他の「降りようとする人物」を呼び戻そうとして介入するのと同じ手法で)マスターに介入して「こちら(作品世界=虚構)側」に呼び戻すのが現実に船越英一郎でもある船越英一郎なのだ。この時、現実の側から虚構が呼び戻されるかのような、不思議な逆流感を感じる。これが何とも不思議な感じなのだが、それだけでなく、この出来事をきっかけにして、物語全体も逆流をはじめるのだ。この場面を観た時、船越英一郎役の船越英一郎は、たんにネタではなく、作品の構成上必要不可欠な存在であることが分かって、あー、やられたと思い、この作品は本当にすげえと思った。