●『マンハッタンラブストーリー』を最後まで観て、その展開や人物の関係を図に描いてみて、この作品の構造の捻じれた複雑さに改めて驚いた。一方に、あらかじめ定められた展開の厳密なルール(A→B→C…G→H、H→G→F…B→A)があって、あくまでそのルールに従って展開しながらも、ルールの上でどうルールを破って予想外の流れ(動き)をつくることができるのかという、もう一つの流れが存在する。それは例えば、二次元上の定まった一本の線があるとすると、その上を走りつつも(それとぴったり重なりつつも)、三次元軸方向や四次元軸方向にズレてゆく別の動きがそれに絡んでゆくという感じになる。
虚構のなかにいくつもの虚構のフレームが入れ子になっているというのは、安定した階層構造(虚構>虚構の虚構>虚構の虚構の虚構…)をつくるのではなくて、いくつもある虚構のフレームの間の関係(並立、包摂、ずれ込み、融合…)をその都度変化させるということで、フレームとフレームの関係は決して安定せず、関係の変化は、フレームそのものの変質も促すことになる(フレームというより集合といった方が分かり易いのかもしれない)。あらかじめ決まったレールの上を進みながらも、その都度、予想外の展開(三次元軸、四次元軸への動き)が到来するということは、このようなフレーム間の関係のあり様によって可能になる。
並行して『結婚できない男』も観ているのだけど、こちらは、非常に練られた脚本、クオリティの高い演出、魅力的な俳優の演技などによって支えられている作品なのだけど、『マンハッタン…』は、演出は粗いし、個々のネタは面白くないし、俳優たち(あるいは登場人物たち)は誰ひとりとして魅力的には見えない(ぼくにとっては)。ただ、その形式のみが面白く、というか、形式の面白さだけで十二分に作品の面白さが支えられているという、とても妙な作品なのだった。
ここで重要なのは、形式の複雑さは、ただ「形式を複雑にすること」が目的になされているのではないということ。このような形式の複雑さによってしか捉えられないリアルさがある、というところが問題なのだから。ある複雑さは、それがそのようにしてあるしかないという必然性を感じさせ、それによってリアルであり、別の複雑さは、ただ形式をもてあそんでいるようにしか感じられない(あるいは、文化的な行き過ぎた洗練でしかない)としたら、この違いがどこかにあるはずなのだが、それについて考えることもまた、かなり複雑な手続きを必要とする、複雑なことになってしまう。
●つづけてクドカンのドラマを観てみようと思って『うぬぼれ刑事』の一話を観たのだが、これは観ていて苦痛を感じるくらいにつまらなくて粗いつくりで、まったく魅力を感じられなかった。ただ、『マンハッタン…』も、一話、二話を観ている時はだいたい似たような感じ(クドカンのドラマの内輪ノリ感は、ぼくには審美的な次元で耐え難いものがある…)だったので、もうちょっと我慢して観てみたい。ある「形式」が見えてくるまでは、ひたすら苦痛なのかもしれないけど。