●昨日のつづき。「ごめんね青春」三話の再放送を観た。三話目にして温まってきてエンジン全開というか、すごいキレキレだった。ぼくが知っている限りで(「あまちゃん」はほとんど観ていない)、この回は、クドカンのドラマのなかで一、二を争う良い出来ではないか(演出なども含めて)と思った。
基本的には、学園モノの王道みたいなベタな展開なのだけど(テストの結果によっては共学クラス廃止、という「試練」によって男女間の仲が深まる…)、ベタな展開のベタさを充分に生かしつつも、全体を通して観ると、たんにベタな展開の再利用に留まらない形式的な複雑さがある。
(宮藤官九郎の脚本は、おそらく七、八割は形式的操作で出来ていて、そこに後から具体的なキャラや細部が当て嵌められてゆくという感じなのだと思うけど、このような場合、演出や演技のレベルで充実した具体性が与えられないと、その骨組みばかりが露出する感じになってしまうと思うのだが、このドラマでは演出がとても上手くいっているように思う。)
さらに、ベタな展開を採用する時は、ベタと分かっていても飽きさせないくらいの新鮮な細部が必要であることと、展開はベタであってもその帰結(オチ)は意外なものでなくはならないということが課せられると思う。
細部については、男子生徒たちがみんなそろって、テストの最中に「あんなに勉強したのに全然わかんねえ」とか言ってピーピー泣き出してしまうという場面などは、これを考えつくのはすごいなあと思った(テストの後ならありふれているのだが、最中というところが新鮮)。帰結(オチ)に関しては、テストは上手くいかなかったとしても、このまま共学クラスが解散したらドラマは続かなくなってしまうので、何かしらの形で逆転があるはずだ、というところまでは観客が予想しているので、ここで重要なのは逆転の意外性であるより、どのような形で逆転すると、納得とカタルシスとの両方を観客に与えることが出来るのかがミソになる。そしてその逆転が、このドラマの主題ともいえる「二項間の素早い行き来」(最初にあった男→女とは逆向きの、女→男という方向の運動)によってもたらされることによって、それは達成されていると思う(でも、変質者の存在はなくてもよかったのではないか、「男子=アリ」できれいにオチていたのに、重ね過ぎというか、伏線の仕込み過ぎで策に溺れた感がちょっとある)。