●『スペック』、本編の最終話までと、スペシャル版の「翔」を観た(劇場版「天」はまだ観ていない)。昨日の日記に、でんでんが出てくる映画はしばらく見たくないと書いたけど、「翔」に出ていた。でも、こちらのでんでんはすばらしい。
これはかなり面白かった。物語的、世界観的には、アニメや漫画などから様々な要素やイメージを借りてきて適当にゆるく継ぎ合わせた感じだし(「スペックホルダー」って要するに世界観的には「スタンド使い」でしょ、とか)、演出も安っぽいのだけど、そのチープさがこの作品に関してはいい方向に転がっている感じ。特に「翔」では、堤幸彦的演出のチープさが作品のあり様とかなり上手く噛み合っていたと思う。例えば、谷村美月を女子高生役に使うという配役の微妙な無理やり感が、でんでんや北村一輝のあからさまに無理やりな(出オチ的)使い方と絶妙にバランスがとれている感じとか。もしこの女子高生役を普通に歳相応のアイドルとかがやっていたら、でんでんや北村の「濃さ」が浮いてしまうだろうし、しかし、女子高生役の方も同じくらい「濃く」したら、今度は全体として濃口になり過ぎてしまう。そういう時に、谷村美月=女子高生という絶妙な外し方(違和感はあるのだけど、他の濃い人たちと比べると違和感を「微妙な」という範囲に抑えている)をしてバランスをとるというセンスが、堤幸彦的なのだろうと思った。クライマックスで谷村美月戸田恵梨香とやり合う場面でも、この配役の的確さが納得される。
とはいえ、この作品の面白さの中心にあるのは何と言っても戸田恵梨香加瀬亮の演じるキャラの面白さにあると思う。特に戸田恵梨香のキャラ(当麻)は、コロンボや寅さんに匹敵するくらいのインパクトとポピュラリティーをポテンシャルとして持っているのではないかとさえ思う。観れば観るほどこのキャラは面白くなってゆく。もちろんこれには、『ケイゾク』の中谷美紀渡部篤郎、『トリック』の仲間由紀恵阿部寛などコンビの下地があっての上で成立しているのだろうけど、これらのコンビを大きく上回っているように思う(もしかすると、「絵的」な面白さからすれば一番地味なのかもしけないけど、でも、コロンボにしろ寅さんにしろ、絵的――映画的――にはあまり面白くないキャラなのだ)。
●『11人もいる!』を八話まで(最終話だけまだ観ていない)。クドカンのドラマははじめの方は面白くないということは、『マンハッタン…』や『うぬぼれ…』を観て学習した。はじめのうちは、まず要素を配置してゆくことが優先されていて、そこに適当な小ネタやありがちな物語を挟んでゆくだけなので、一応の「配置」が完成するまでは割とありきたりのドラマとして展開する。それは覚悟していたのだけど、『11人…』では、六話か七話くらいになってようやく仕掛けが動きはじめる。そろそろ来たかと思ったら、あともう一回で終わりなのか…、となってしまう。
お爺さんが実はお婆さんだったとか、テレビの向こう側のダイナミックパパ一家とテレビのこちら側の大家族とがフレームを超えて混じり合ってしまうとか、「−1」として存在する幽霊が「+1」に転化するとか、確かに構造として面白いことがいくつかやられている(「二」をめぐるテマティックな分析をすれば、それなりに面白い結果は得られるだろう)。でもそれらは、『マンハッタン…』で極限まで追求されたものの、ごく緩い使い回しにしか思えない。では構造以外に何か、主題として興味深いものがあるとか、細部の小ネタが切れているとか、俳優たちのキャラや演技が魅力的だとか、そういう別の面白さがあるのかといえば、ぼくには何も見つけられなかった(神木隆之介だけは、ちょっといいと思った、神木隆之介は、「桐島…」もよかったし、「スペック」もいい)。設定としては面白そうだったので、これは期待できるかもと思ったのだけど…。
でもまあ、このような「緩さ」を獲得することができたから、クドカンはテレビドラマの脚本家として生き延びることが出来ているということなのかもしれない。ぼくは、本来、ゆるく観られるようにつくられているテレビドラマに対して、何か過剰な、間違った期待をもって観てしまっているのかもしれない。
●あと、クドカンのドラマではいつも、ある種のコミュニティのあり様というようなものが主題としてあるのだけど、それは主題として評価できるような内実を持っているのだろうか。いわゆる「小劇場っぽい内輪ノリ」にもみえるその部分をどう考えるのかによって、作品の評価は大きく違ってくると思う。例えば、クドカンのドラマに多く出てくるヤンキー(DQN)ネタを、ヤンキー文化の(安易で表層的な)搾取のようなものとして考えるか、あるいは、もっと積極的な何かとして考えることができるのか、とか。