●『うぬぼれ刑事』を六話まで観たけど、やはりぼくにはクドカンはダメなのかもと思った。ネタや演技の小劇場ノリにしても、妙な八十年代ノスタルジーをまぶしてくる感じとかにしても、どうしても受け入れることが出来ず、面白くないというか、観ていてかなり苦痛だ。
確かに『マンハッタンラブストーリー』と同様、登場人物の役割のなかに(フィクションに対する位置がそれぞれ異なる)当事者と記述(操作)者と演じ手と観客とを混在させることで、フィクションの平面にいくつもの落差を生じさせて、複数のフレームの競合を起こすという構造はここにもあって、それはつまらなくはない(この構造は、フィクションの外の現実――ここではワイドショー的なネタという程度のものだけど――をフィクション内部に取り込むことで、視聴者が存在する現実平面さえもフィクションの一部としてその内部に取り入れること――視聴者をフィクション化する――も可能にする)。半分を過ぎた辺りから、物語や関係の逆流も起きそうな気配もある(クドカンの脚本においては、逆流−逆転こそがクライマックスをかたちづくる)。しかしそれらはすべて、既に『マンハッタン…』で徹底して追及されたものの緩い応用というか、焼き直しにしか思えない。六話まで観た段階では、ここに何か新しいものが付け加えられている感じも、変質が起こっている感じもない。
この構造が便利なことは確かで、一度この使い方を覚えてしまえば、設定をつくってそこに適宜それなりのネタを投入していけば、物語をいくらでも(ほぼ自動的に)長く展開することが出来るようになる。『マンハッタン…』では、ルールを作ってそれを守ることと、ルールを守りつつそれを裏切ることとの相克としてあった形式(それは探求であり、発見であり、実践であるようなものだ)が、ここではたんに物語の展開を自動的に導きだしてくれる便利な手法になってしまっているように思う(『マンハッタン…』は形式がむき出しの無骨な作品だから、多くの人がそこから技法を盗める――汎用性の高い――作品ではあると思う)。
まあ、作品を量産可能な「プロ」であれば、「こういう作品もある」ということかもしれないので、この『うぬぼれ…』はここらへんでやめて、もうちょっと別のクドカンを観てみようかと思った。