●「ツインピークス」、最終話(18話)まで観て、そのままつづけて二周目に入る。
(最終話を観ていて、そういえばローラ・ダーンも「ローラ」なんだよな、と気づいた。)
リンチは、ロジックの人でも形式の人でもない。そして、アバンギャルドでもアナーキーでもない(ゴダールでもなく、「ポプテピピック」でもない)。リンチは少なくとも、『エレファントマン』と『ツインピークス』という二つの世界的なヒット作をもつメジャーな(大衆的な)作家である。
「ツインピークス」には、謎の気配や配置によって、観る者に対して、先の展開への興味を持続的に繋ぎとめるような、「物語」としての継起的な展開(推進力)がある。だが、同時に、入口もなければ、出口もない。
(あるいは、あらゆる場所が入り口であり、出口である。)
しかし、この「入口もなければ出口もない」という迷宮性は、形式的に構築されているわけではない。少なくとも、物語のなかに別の物語が仕組まれていて、主客が何度も反転してどれが現実か分からなくなるとか、物語のなかに物語がフラクタル的に埋め込まれていて、視点の位置がどこにあるのか分からなくなる、というかたちにはなっていない。あるいは、そのような形式が作品を支えているのではない。
形式というのは「かたち」であり、ある程度直観的につかめるものだが、構造は「かたち」ではなく、ある解析の過程を経てはじめてあきらかになるものだとすれば、「ツインピークス」で働いているのはなんらかの構造であると思われる。
(分かりやすい形式性は、観客の関心を引っ張る「物語」の水準では作用しているが、その「面白さ」の水準で作用しているわけではないように思われる。)
あらゆる場所が入口であり、同時に出口であるとしても、「ツインピークス」はあくまで継起的に語られる物語であり、「あらゆる場所が入り口で同時に出口だ」という状態(内容)は、作品をはじめから順番に見ていくことを通じてしか、それを受け取ることができない。つまり「ツインピークス」は、「継起的な物語」というメディウムによってつくられているので、謎の解決や伏線の回収がみこめないとしても、ネタバレ抜きで、最初から順を追って観る必要がある。
これは、メディウム(時間)と内容(無時間的構造)とが乖離しているとも言えるが、実は、「ツインピークス」の面白さは、この乖離から来ているようにも思われる。
(25年前のシリーズと、同じ俳優たちが出演し、ほぼ同じような役割を演じつつも、確実に彼らは歳をとっている。確実に時間は流れており、同時に、時間はほとんど関係ない。)