2021-11-15

●山本浩貴「pot hole(楽器のような音)」(「ことばと」創刊号)。「無断と土」であれば、とてもハードで歯ごたえがあるとはいえ、読もうと思えばふつうに読むことが可能だ。たとえば、いきなり「詩」が出てきて、これをどう読むべきなのかと読みあぐねていると、その先に「詩の解釈」が書き込まれているのに行き当たる。だが「pot hole」にはその「詩の解釈」の部分がない。この小説をどう読むべきかということが、この小説には書き込まれていない。だから、この小説を読むということは、中味を読み進めることと、どう読めばいいのだろうかと探るということとを、同時に進行していかなくてはならない(とはいえ、本来ならば、あらゆる小説(作品)はそうであるはずなのだが)。では、どう読めばいいのだろうか。

まず、この小説は戯曲の形式で書かれている。だが、ここでいう「形式」とは文字通り「かたち」であり、戯曲が紙面に印刷されるとき、通常、文字はこのようにレイアウトされる、ということを意味する。中味をみる限り、戯曲にはなっていない(なっている部分もあるが)。登場人物の台詞であるかのようにレイアウトされている部分にも、ト書きとしてレイアウトされている部分にも、通常の小説の地の文のような文章が置かれていたりする。つまりここでは、内容と形式が一致していない。

では、戯曲の「形」で書かれていることに意味はないのかというと、そういうわけでもない。ト書きであるかのようにレイアウトされた部分には、あきらかに、舞台装置や舞台上の人の動きを指示しているような言葉がみられる(こともある)。だがそれは、舞台装置や人の動きを指示するもの(通常のト書き)なのか、今、舞台で起こっていることを描写しているもの(上演の描写)なのか、しばしば判然としない。さらには、台詞としてレイアウトされている場所にも、ト書きとしてレイアウトされている場所にも、「この戯曲(この小説)」を上演しようとしている人たちの姿(物語)が通常の小説のように書かれた言葉(文章)が配置されていることもある。さらにもう一つ、この戯曲によって表現されようとしている物語内容(出来事)を、舞台上の描写とはことなるやり方(詩的だったり小説的だったりする言葉)で表現する文章が、台詞の部分やト書きの部分にバラして配置される。この「物語内容」は、この戯曲を上演しようとしている人の一人である「Yさん」の経験であるようだ。物語内容は二種類ある。一つは、Yさんが子供の頃の話で、近くの山で土砂崩れが起きて人が死んだことと、Yさん自身が川で溺れそうになって、そこで自分の足をひっぱる防空頭巾の幽霊をみたこと。もう一つは、Yさんが大学院に進んで間もない頃に、友人が自殺したこと。

つまり、戯曲のようにレイアウトされた形式のなかに、(1)戯曲、(2)その戯曲の上演の描写、(3)戯曲を上演しようとしている人たちの話、(4)戯曲-上演によって表現される二種類の物語内容(子供の頃の経験と友人の死)の小説的描出、という異なるレイヤーが、ベタッと一つの層に圧縮されて書かれている。だから、この小説を読むということは、まずは、一つの層に圧縮されたものを、複数のレイヤーに腑分けすることだと言える(そうでなければ「意味」がとれない)。だが、読むということは、腑分けして整理するということとは違う。「一つの層に圧縮された」という言い方は正しくないかもしれない。同時に走っている複数のレイヤーがあって、(読むことを一筋の継起的な流れとするならば)スイッチングするようにして次々と別のレイヤーに飛び移るようにモンタージュされているとみることもできるし、(読むことが多次元的な空間の構築を可能にすると考えるのなら)様々なレイヤーの重ね合わせによって現実的な時空間とは異なるパースペクティブを打ち立てようとしているとみることもできる。この小説の狙いは後者であろう。

ではなぜ、こんなに困難でわかりにくい多次元的なパースペクティブの設立を仕掛けなければならないのか。それはおそらく、この小説が慰霊と死を主題とする作品であることと関係があると思う。

この小説の第四場で、上演中に舞台上の斜面から滑り落ちる役割を担わされる「人1」とされる存在は、この舞台を上演しようとしている人たちのうちの一人である(おそらく)ナーちゃんと呼ばれる人物について、一人称で語りはじめる(人1はナーちゃんによって演じられるのだろう)。ナーちゃんは小田急線で鵠沼海岸に向かいながら、「戯曲がぜんぜん掴めない」と思い、一度、戯曲のモデルとなったYさんの故郷の小学校まで行ったほうがいいだろうかと考える(戯曲のなかに、それを上演しようとする人の悩みがあらかじめ織り込まれている入れ子構造、とは考えない方がいいと思う、ここではたんに時空の底が抜けている、そのようなことがふつうに可能な時空が成立している)。そしてグーグルマップでYさんの故郷を検索し、事件の現場を辿るように移動する。電車で移動すると同時に、グーグルマップ上を移動してもいるナーちゃんの一人称の語りが重なるのだが、そこに、時折ノイズのように(おそらくYさんのものだと思われる)直接的な経験の描写が差し挟まれる。(1)小田急線での現実的な移動、(2)グーグルマップ上での仮想的な移動、(3)外からもたらされる直接的な経験、に、さらに、ナーちゃんがしばしば行う「人の動き」をつかもうとするドローイングの話、(5)6500万年前の隕石の衝突による恐竜の絶滅(絶滅した恐竜は《それ以降の時間には進むことを許されず(…)》)が加わり、いわば5つのレイヤーが重なって同時に走っている状態が生まれ、その先で、ナーちゃんの経験の一人称とYさんの経験の一人称(それは後に「人3」によって語られる)とが完全に重なる一瞬が訪れる。

第四場は、この小説のなかのクライマックスのもっとも分かりやすい例の一つだと言えるが、このようなはっきりした形に限らず、この小説の様々なところで、多次元的な交錯や出会い損ない、重なりやズレが起こっており、この小説は、このような多次元的な重なりやズレを経験することを通じて、(それを読む、少なくとも読もうと試みる)われわれに、別の時空間のなかに降り立つ別の身体への可能性をつくりだそうとしているのだと思われる。そのようにして別の身体の可能性を探ることが、慰霊につながるのだと考えているのではないか。

●この小説について、「文學界」の新人小説月評では以下のように書いた。

《山本浩貴「pot hole(楽器のような音)」(ことばと)。荒川修作小林康夫との対談集の中で次のように言う。《小林さんは言語の持っている不思議な力強さで自分を相当納得させているところがある。しかし私は、言語にはどこまでつきあっても納得できないんです》(「場それ自体が行為であり出来事なんだ」『幽霊の真理』)。荒川は、世界の発生には環境とそこへの入り口が必要だが、言語では、入り口は作れるが環境そのものまでは作れないと言う。だがそれは、入り口ならば言語で作ることが可能ということでもある。ここで新たな世界を生む環境とは、空間、時間、そして身体の関係の新たなあり方のことだ。そこへの入り口は、「自分を納得させる」ような言語の使い方とは別の使い方で作られる必要がある、と。本作は言葉への態度として荒川と共振しているようだ。だが同時に、入り口の創造がそのまま環境の創造の促しとなるような、誘因力と設計図としての密度を言語がもつところまでが目指されていると感じる。設計図を書くことがそのまま建築することであるような建築物、地図を書くことがそのまま身体の運動であるような行為の組み立て。様々な視点や形式や階層やスケールが、互いが互いを含み、含まれ合うことで、複雑な錯綜状態を作る本作の構造を簡潔に示すのは難しいが、単純化すれば、暗闇を手探りで進むように読むしかない部分と、メタ的に俯瞰する部分が混在しており、一文の中にも身体に無理な姿勢や変形を強いるねじれや接合が込められる。それは変身を描くのではなく読むことが我々の変身への促しとなるような言葉だ。変身は身体の変化だけでなくそれを包む時間と空間の変容と不可分だろう。》