●いままでのチェルフィッチュでは、俳優は演じ手であると同時に語り手でもあって、つまり、セリフとト書きとが混同されたものが「セリフ」として語られていた。それによって、俳優は役の人物になったり、その外からその人物のことを説明したりと、作中人物に「入ったり出たり」できるようになっていた。だから衣装も、その登場人物そのものであるようなものではなく、なんとなく、その人物であるような、ないような感じになっていた。『フリータイム』で主にファミレスの店員を演じる俳優(一つの役は他の俳優へもバトンタッチされ、複数の俳優によって演じられ、また語られるのだが、この役は主にこの人、という、なんとなくの割り振りはある)は、別にファミレスの店員っぽい衣装は着ていなかった。役と俳優とがぴったりとは一致していない、このようなテキスト-言葉の有り様と、いわゆるチェルフィチュ的な妙な動き-仕草とは不可分であるようにぼくには思われる。
セリフであるようでいてト書きでもあり、今、現在その役を演じているようでいて、人から聞いた過去の話を別の人に対して話しているようでもある言葉の有り様が、日常的な仕草であるようでいて、人工的に振り付けられたようでもあるものとして、または、作中人物のものであるようで、俳優自身のものでもあるようなものとして、あの妙な動きを納得できるものとする。だからあの動きは、作中人物(語られる内容)、言葉の有り様(語り-上演の形式)、俳優自身のリアルな身体(普通に、今、生きている誰かである俳優の存在)との三つは必然的なものとしてが重なり合っていたと思う。
だが、『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』では、密接に絡み合っているはずのうちの一つである「言葉の有り様(語りの形式)」が違うものとなっていた。つまり、セリフは、ト書きと混同されることなく、普通にセリフとしてあった。そのセリフが極端に冗長性と反復性とが強調されたものであるとしても、形式としてはあくまで「普通のセリフ」だった。だから俳優は、普通に役の内部にずっといて、普通にサラリーマンを演じるような、普通の衣装を着ていた。密接に絡み合っているはずの三つのうちの一つが変わったということは、つまり、それ以外のものの意味も変わったということなのだと思う。この作品での、いわゆるチェルフィッチュ的な動きの持つ意味は、以前の作品でのそれとは違うものになっているということだろう(これは、昨日書いたことと微妙に矛盾しているけど)。ぼくが、最初の「ホットペッパー」をなかなか上手く受け入れられなかったのは、その変化に戸惑ったからなのだと思う。
その変化がどのようなものなのかについて、今、それらしいことは言えないのだが、そのことと、この作品が今まで以上によりダンスに近づいていること、そして、音楽が非常に重要な位置を占めていることとは関係があると思う。おそらくこの作品では、音楽は、言葉やパフォーマンスと同等以上の意味-価値をもっている。言葉とパフォーマンスと音楽は、異なる系としてそれぞれ独立したものとして存在しながら、互いに互いを規定し合い、また裏切り合ってもいる。音楽は、ある意味では言葉(テキスト)以上の強さでパフォーマンスを規定し、束縛している。しかしパフォーマンスは、それと拮抗し、それを押し返すほどの強さに達していた(少なくともいくつかの場面では)と思う。
音楽は、録音されたものなので、最初に動かせないものとしてあって、おそらく最も強い「法」として作用している。テキストもまた、多少の可変性はありつつも、身体(芝居の稽古)より前にある。そこへ最後に俳優の身体がやってくるので、ある意味それは最も不利な、他の二つからより強く規定を受けるものであろう。しかし、作品においては、あたかも、今、目の前でその三つが同時に生成しているかのようにしてある。