荒川修作は死なないのだから、別に追悼はしないけど、ここ一ヶ月くらい、毎日のように荒川/ギンズの「REVERSIBLE DESTNY」という画集を眺めていた(ぼくの作品を展示している時に百年で買った)。特に、荒川修作について詰めて考えていたわけではなく、ただぼんやりと見ていただけなのだが。樫村晴香によるあまりにも強力なテキストにひっぱられているというきらいは確かにあるけど、「ボトムレス」という作品の重要性を感じていた。この作品はまだギリギリ美術作品と言えるようなものだが(しかし、美術作品と言えるかどうかなんて、まったく重要なことではないが)、この後の荒川の作品が、平面的図示(意味のメカニズム等)と建築物という二つの方向へ分岐してゆくことの必然性が、この作品に込められているように思う。言い換えれば、荒川のあらゆる作品から「ボトムレス」の残響が聞き取れる気がするということでもある。
今、大阪でやっている展覧会では「ボトムレス」は展示されてないみたいだけど。
おそらく荒川は、人間の生命活動のすべてを、図示したり記述したり出来るように幾何学化して把捉したいと考えていたのではないかと思う(死なない、というのは、そういう意味ではないか)。それはつまり、マテリアルというものを記述によって完全に代替する、押さえ込むことが目指されているということだと思われる。だが、そこで面白いのは、それをよくあるSFみたいに、コンピューターのメモリー内部に記憶や意識を完全に移行させる(あるいは、もうひとつの宇宙をつくる)というような形でではなく、身体のまわり(身体の外)にある物質を組み立てることによって、その空間の内部に(空間そのものとして)生命活動を封じ込めようとしていたというところではないだろうか。でもそこで、空間をつくるには物質が必要だが、そこで把捉されるものは(生命活動そのものであって)物質ではない、という点が重要になる。荒川の作品の異様なまでの薄っぺらさ、記号と現実の混同、マテリアルへの軽視は、だから必然的な意味を持つ(図式的で観念的で平板である「意味のメカニズム」と、具体的な空間の創造としての建築物は、その薄っぺらさによって裏表で重なるし、それを端的に示しているのが「ボトムレス」ではないか、しかしまた「ボトムレス」ではまだ、かすかにマテリアル-固有性-記憶への執着が匂っていて、それがこの作品を「美術作品」としているように思われるのだが)。生命が幾何学化されるためには、それ(生命活動が把捉された空間)を組み立てるための物質も同様に幾何学化されていなければならない。だから、あらゆる物質は(記述のための記号のように)仮のもので、固有性が剥奪された、代替可能なものでなければならない、と(生命は物質に宿るのではなく、あくまでその組み立て方に宿る、と)。三鷹の住宅では、(予算の都合も勿論あるだろうけど)多くのパーツに平然と既製品-規格品が使われていた。
あともう一つ、荒川にとって決定的に重要なのが「重力」だと思われる。荒川にとって、重力を感じる(あるいは、重力に抗する)ことと生命活動には不可分の関係があり、重力、あるいは平衡感覚を媒介とすることで生命活動そのものへと触れ得るという直感が、常につきまとっているように感じられる。
以上のことは、画集をぱらぱらめくりながらなんとなく感じていた、きわめて粗くて大ざっぱな思いつきにすぎ゛ないのだが。