●昨日は、今日から国立新美術館ではじまるオルセー美術館展のプレス向けの内覧会に混ぜてもらっていた。忙しくて出かけている余裕はないのだが、普通に観ようとすれば、激混みのなか、人混みをかき分け、人の頭越しにしか絵が観られないと思われるので、無理して出かけた。おかげで、少ない人のなかでゆっくりと観ることが出来た。おそらく、会期中はいつ行ってもこんなに空いてることなどないと思う。
いきなり最初に展示してあるドガが素晴らしくて、寝不足で頭がぼんやりしていて、絵を観るのに集中出来るだろうかと電車のなかでは心配していたのだが、そのよどんだ感じが吹き飛んだ。さすがに密度の濃い展覧会で、全体の三割強くらいの作品が、観られて良かったと思い、時間をかけてじっくりと観てしまうような作品だった(三割ってかなり打率高い)。これだけの作品(画家)が、十九世紀の終わりから二十世紀の初頭というわずか数十年の間に、フランスという限られた地域で生まれたということはやはり驚くべきことで、つくづくこの時期のフランスは特別だったのだと思う。
有名すぎてもういいよっていう感じの(混んでいたらきっといい加減にしか観なかったと思う)モネの「日傘の女性」も、じっくり観るといろいろ気づいて面白かった。その他も、モネの作品はかなり粒ぞろいだったと思う。それから、ルソーの絵をはじめて面白いと思った(「蛇遣いの女」)。ゴーギャンは普通に真面目で堅実な画家なんだな(人としてではなく、画家として)、と改めて感じた。意外だったのは、ナビ派の作品がたくさん展示してあったことで、こんなにたっぷりとナビ派を観たのははじめてだった。ボナールの小品はかなり面白かったし、ヴュイヤールを改めて認識し直した。ボナールの大作、「装飾パネル」も良かった。これはかなりあやうい絵で、公募展とかに並んでいるような絵と紙一重とも言えるけど、それは、紙一重違えばこんなにも違う、ということでもある。
とはいえ、やはり飛び抜けていると思ったのはゴッホセザンヌだった。
ゴッホの「星降る夜」はちょっと神がかっている感じ。おそらく、ゴッホの全作品のなかでも、ここまでジャストミートしている作品は何点もないんじゃないかと思う(全作品を観たわけじゃないけど、全作品が載った画集は持っている)。この絵の、暗くて深くて透明な青と、非物質的に輝く黄色は、油絵の具でしか実現できないものであると同時に、この世界ではないどこか別の次元から射してくる光でもあるようだ。ゴッホの絵の具はパレットの上でだけではなく画面の上で混ざる。そういうやり方でしか実現しない絵の具の重層性がこの深い色をつくる。表面だけが軽く乾いた画面上の絵の具と、筆についた乾いていない絵の具とが、画面の上で触れあい擦れあって混じるから、この混じり具合はまさに、筆を入れるタイミング(下の絵の具がどの程度乾いているか)と、筆の毛の弾力の具合、筆先に込められた力や勢いや方向等々が、まさにこれしかないというジャストミートのやり方で上手く重なった時にだけ、このような輝きが実現する(ブルーとイエローとが「偶然混ざってしまった」としか思えないやり方で生まれる、半透明の層の下から浮き上がるくすんだエメラルドグリーンのような色 ! )。それはやり直しのきかない一発勝負で、だからゴッホには「これって、普通に下手だよね…」みたいな絵も多い。
セザンヌの「ギュスターヴ・ジェフロワ」を観て、ひっくりかえりそうになった。勿論、図版では何度も観ているけど、ここまでへんな絵だとは、実物を観るまでわからなかった。絵を観ただけで「酔って」しまいそうになることはあまりない。セザンヌは、三半規管がおかしかったのか、逆に、すごく精度の高い平衡感覚をもっていたのか。形が歪みまくっているし、軸がぶれまくっているし、空間が歪みまくっている。しかも、例えば表現主義の作品のように、わかりやすく一定の方向に歪んでいるのではなく、異なる歪み方をした形や空間が複数接続されているので、ここがこう歪んでいるとすぐには指摘出来ず、分けが分からないまま三半規管がぐらぐら揺さぶられる。セザンヌキュビズムが根本的に異なるのは、キュビズムの作品には確かに複数の異なる視点が埋め込まれてはいるが、そのズレは画面上で矛盾しながらもなんとなくバランスはとれていて、複数の空間の同時共存はあっても空間の歪みはない。
例えばこの絵で、異様にボリュームが強調されている人物の胸の辺りと、顔や手との連続性が感じられず、まるで生首が浮いているようにも見える。そして、人物の背後にある不自然にずらされた椅子の背もたれをみると、この、胸にボリュームをもつ三次元的な人物の体重を、この椅子が支えることが不可能であることが分かる。ここで平衡感覚が大きく揺さぶられるのだが、実は、人物の向かって左手にある本棚の仕切りが、(視覚的に)この人物の体重を辛うじて支えているので、肩すかしされて転びそうになった平衡感覚は、ここで、重力とは別のものによって支えられる。つまりここでは、平衡感覚はいなされ、揺さぶられるのみで、崩れ、転んでしまうことは許されない(体勢が崩れて、転んでしまえば、それなりに揺さぶりは解決されたことになるのだが、そうはいかないのだ)。だが、この本棚の仕切りは、画面の安定した支柱となることななく、切れ切れで不安定だし、本棚の中の、左右に軸を倒しつつ並んでいる無数の本の重さによって、いまにも崩壊しそうに歪んでいる。逆に言えば、この、本たちの重さにきしんでいる本棚の仕切りは、人物の異様な胸のボリュームの厚さ-重さ(と、椅子のズレ方)によって支えられていると言えるのだが、それは、バランスがとれているというような、調和的な表情とはまるで違う。ここでは、今にも崩壊してしまいそうな空間が、本来はそれを支えることなど出来ない、別の次元の空間(との歪んだ接続)によって、かろうじて倒壊をまぬがれているといった事態なのだ。
これはほんの一例で、このようなことはこの一つの画面のなかで無数に起こっている(机の上とか、フレームの横様から侵入してくる本とか、すごく変)。だから、この絵を観て「酔って」しまうというのは、比喩的な言い方ではなく、フィジカルな次元でそうなのだ。絵画と重力とは、切っても切れない関係にあることを改めて感じた。
セザンヌをポスト印象派というくくりに入れるのは間違ってはいないのだろうけど、それでも他の人とは根本的に何かが違う。
●帰りに新宿のジュンク堂に寄ってジジェクの『パララックス・ビュー』を買うつもりで、「高い本で、かなり無理してるけど、今日は買うぞー」と勢いこんでいたのだが、実際に手にして、パラパラ見ていたら、リヒターについて言及しているページに偶然行き当たって、それを読んだら、リヒターに対する見識があまりにも浅はかだったので(ぼくはリヒターは全然良いと思わないのだが、それにしても…)、買おうとする意欲が萎えてしまった。いや、ぼくだってジジェクは何冊も読んでるから、ジジェクにとって「作品」などネタフリのための小話くらいの価値しかないことは分かっているし、そこを差し引いたとしても、ジジェクには読むに値する何かがあると思うから読むわけなのだが、直前まで絵を観ていたこともあって、それにしてもこれはあまりにも「先に言いたいことありき」でありすぎじゃないかと思って冷めてしまった(そういえばジジェクドゥルーズ論でも、ポロックについて、あんまりにもあんまりな書き方がしてあって、えーっ、と思ってしまったことを思い出した)。
で、結局ジジェクは買わずに、『ヘレンケラーまたは荒川修作』を買ってしまったのだった。