チェルフィッチュを観ると、我々が普通に言葉を喋ることが既に演劇なのだということに気づく。つまり、演劇というフィクションは、劇場(舞台)というフレームによって現実と切り離されることで成り立つのではなく、言葉というものが、そもそも演劇が成立することによってはじめて可能になるもの、演劇と不可分のものであるのだ、ということ。人が普通に、素で喋る言葉は、すでにセリフであり、その発話行為は演技であり、その発話が作用する圏内はひとつの演劇的な場面としてかたちづくられる。発話することとは、それによってその場をひとつのフィクションの場として定位する(しようとする)ということだ。逆に言えば、そこここで行われている普通の発話が既に演劇(場の演劇化)であるからこそ、舞台というフレーム(通常「演劇」と呼ばれるもの)がその特殊形態の一つとして成立可能なのだ(このことについて詳しくは『人はある日とつぜん小説家になる』の岡田利規論に書いた、というか、岡田論を書きながら、このことに気づいた)。
それどころか、あらゆる表象行為は演劇的なものであり、演劇が基底となることではじめて可能になるのではないかとさえ思えてくる。例えば、ラスコーの洞窟に描かれたあの動物たちは、何かしらの儀式-上演の一部であることによってはじめて、絵画-イメージとして生まれ得た。
あらゆる表象行為が演劇的であり、それによってはじめて可能になるものだからこそ、例えば近代小説や近代美術は、そこから限りなく離れようとした(おそらく演劇自身もそうなのではないか)。どこまで、演劇的体制に依存しない形で、つまり、「場の力学」に依存しない(自律した)形で、表象を、イメージのモンタージュを、成立させることが出来るのか。言葉を、表象やイメージを、語りという次元から離陸させて記述として自律させること。それによって、表象を、イメージを(貨幣と交換できるような)流通可能にすること。おそらくこれは、近代というものを貫く大きなミッションであった。それによって、例えばベンヤミンが言うような孤独な読者も可能になる。
例えば小説の描写は、対象を記述するのではなく、対象を客観的に記述するかのような口調で書かれることによって、描写が対象をつくりだすものであるはずだろう。あたかも、客観的な記述であるかのような語り方(三人称)が、「(無根拠な)発話の力(発話することそのもの)によって場が定位される」という根源にある演劇的な(暴力とさえ言い得る)力を覆い隠す効果をもつことで、虚構世界は客観化され、それによって逆に、現実であるこの世界から切り離され、虚構として自律する。つまり、実これもまた、一つの語り方の問題であり、ある種の語り方が三人称という権威をまとうことで(語り手が透明化して)客観化するのではないか。その客観性はとりあえず、「私」からも「場の力学(権力関係)」からも切り離された、第三者の視点によって記述されている(保証されている)、つまり、この場の利害に関係ない(透明な)第三者が記述しているのだから客観的である、と。
フリードが「没入」というかなり無理矢理な概念を使ってまでも美術における「演劇的なもの」を批判したのも、美術がもともと演劇的なものの力の内部にしか成立しないもので(それは必然的にベンヤミンの言う「礼拝的価値-権力」が作動する圏内にある)、しかしだからこそ近代美術はそこからの自律を目指すものだという確信があるのだと思う。
発話、表象、イメージが根本的に演劇的であるということには、二つの側面があろう。一つは、あらかじめ作用しているその「場」の力が、「場」の体制が、発話やイメージのありようをあらかじめ規定し、検閲し、整流してしまっているという側面。もう一つは、なんの根拠もない発言やとうとつなイメージのあらわれが、いきなりある「場」を定位してしまう、あるいは、今まで作用していた「場」の力学を別物に変えてしまう、という側面。モダニズムの作品はおそらく、前者からの切断として(場の力からの自律として)、演劇性からの離脱を目指したのだと思う。しかし、作品の真の力は、後者にこそある。
その「場」で作動しているフィクションの体制とは、そこを支配している権力関係でもある。しかし、その権力-フィクションの体制を知らない奴がどこかからふらっとやってきて、まったく空気を読まない発話をいきなりすることによって、いままで作動していたのとは別のフィクションの体制がいきなりたちあがってしまうことがある。それは決して奇跡的な出来事ではなく、しばしばあるはずなのだ。その時、その場の力関係を規定していた整流機とは別の整流機がふいに作動しはじめ、その場にいる人は、いままで見えていたのとは別の通路、別の行動可能性、別の指針を見出すことができるようになる。発話の演劇性とは、発話が場というフレームに規定されているということであると同時に、発話自身の力によって場というフレームがあらたに定位され直すということでもある。
チェルフィッチュの作品が、たんに演劇としてすぐれているということを越えてすごいのは、上記のような「発話することによってフィクションがその都度新たにたちあがる」その感触を、そのような出来事を、まさに目の前で引き起こして見せてくれるからだと思う。言葉を使う限り我々は誰でも演劇のなかに生きているのだから、それは演劇だけの問題では決してない。