●『隻眼の少女』(麻耶雄嵩)が面白かったので法月綸太郎の「初期クイーン論」(「現代思想」95年2月号所収)を読み返してみた。
(以下には、『隻眼の少女』の、直接的ではないけど、ほとんどネタバレに近いことが書かれると思います。)
《(…)『ギリシャ棺の謎』のようなメタ犯人---ここではさしあたって、偽の犯人を指名する偽の証拠を創り出す犯人、と定義しておく---の出現は、「本格推理小説」のスタティックな構造をあやうくするものである。メタ犯人による証拠の偽造を容認するなら、メタ犯人を指定するメタ証拠を偽造するメタ・メタ犯人が事件の背後に存在する可能性を否定できなくなる。これは「作中作」のテクニックと同様、いくらでも拡張しうるが、その結果は単調な同じ手続きのくりかえしにすぎず、ある限度を超えれば、煩わしいだけのものになる。こうしたメタレベルの無限階梯を切断するためには、別の証拠ないし別の推論が必要だが、その証拠ないし推論の真偽を同じ系のなかで判断することはできない。ということは、この時点で再び「作者」の恣意性が出現し、しかもそれを避ける方法はないのである。》
《(『シャム双子の謎』において)エラリイは犯人に対して一種の心理テストを仕掛けるが、その結果を除けば犯人を特定する積極的な根拠はほとんどないに等しい》。
小説内で与えられている(外部からの参照なしでの)、純粋に客観的な証拠と推論によって、それ以外にありえないという唯一の犯人にたどり着くようにフィクションを組み立てることが「本格推理小説」のフェアなルールだとすれば、自分とは別の犯人の犯行であるかのような偽の証拠を仕掛けるメタ犯人(このような犯人は特別の存在ではなく、普通にいるだろう)が登場するだけで、その内的な自律性を保てなくなってしまう。そこでは犯人の特定が、心理テストのような「ひっかけ」や犯人側の失策という、「客観的証拠と推論」とは別の(いわば偶発的な)要素に頼るしかなくなる(作られた犯罪であるミステリにおいて、犯人の失策-偶発性とはそのまま作者の恣意性になる)。ここで「本格推理小説」の純粋な形式性(内的自律性・ゲームとしてのフェアネス)は破られてしまう。それを無理やり維持しようとするのなら、メタ犯人に対するメタ・メタ犯人の可能性、さらにメタ・メタ・メタ犯人の…、という風に、論理階梯の単調な無限後退を行うしかなくなる。
麻耶雄嵩のデビュー作『翼のある闇』は、まさにこのような問題のさなかで書かれている。謎解きが何度もひっくり返されたあげく(しかもその度に謎解きは突飛なものとなってゆく)、最後には作品が目指しているはずの内的自律性そのものをまったく無視して(自律性が目指されているからこその「強引で突飛な謎解き」だったはずなのに)、歴史的な外的参照物(ソ連崩壊)が、真相が真相であるための「根拠」として唐突に使われる。両極端のあまりに強引な接合。あまりに強引であるその「強引さ」そのものが、その「強引さ」を正当化する根拠となる(つまり根拠はそこにしかない)。
あるいは、論理によって真相を解明するのではなく、真相を論理の都合によって書き換える、メルカトル鮎のような特異な探偵の創造もまた、この問題によって要請されたものであろう。
『隻眼の少女』においては、あまりに優秀なメタ犯人の犯行に探偵が気づくことが出来るのは、犯人による「教育的配慮」があるからなのだ。つまり、犯人側の失策や、探偵側の仕掛けた罠によって足がつく(偶発性)というより、犯人による探偵への意図的な配慮から足がつく。つくられた作品のなかの偶発性は作者の「恣意性」をあらわすが、犯人が意識的であることによってそれは作品の「必然性」となるだろう。犯人は、探偵がその推論の力によって自分のところに辿りつくことを望んでいる。だが、望んではいるが、誘導しているのではない。自分のところにたどりつけるような力が探偵にあるということを、望んでいる(教育的配慮というのは、そういうことだ)。探偵に本当にそこまでの力があるのかどうかは、犯人の側では決定できない。この部分に、この作品の重要な点が賭けられている。
犯人から発せられたものが、結局犯人に帰すことで作品は完結する。いわば犯人側の完全勝利でおわるこの作品に、しかし結局すべてが「ゼロ」となるわけではなく、何とも「嫌な感じ」が残るのは、犯人の自己完結的な行為が、実は決して自己完結できないからだ。ここのあるのは、教育と伝承の問題であり、そこにつきまとうトラウマの問題である。この作品の起点であり終点であるものは、教育あるいは伝承という行為が決して「形式(自律)」に還元できないという事実であり、しかもそれが、自らで積極的に選択できないトラウマとして刻まれるしかないという事実だろう。自分がはじまるより前に、既に何か刻まれている。そのこと自体が、自分にとって選択不能な暴力である。しかしその暴力がなければ、そもそも自分は自分ではないのだ。父によって与えられたその暴力を、父に返すことを通じて娘に対して反復する。この作品には、このような主題がまるで合わせ鏡に映る像ように、至るところに散乱している。
●あと、面白いのは、このメタ犯人が、けっこう行き当たりばったりに犯行を仕掛けている点。つまり、複数の偽の犯人を想定し、そのための複数の偽の証拠をばらまきつつ、状況の進展のなかで、様々な偶発的要素をその都度取り込みながら、一人の「偽の犯人」へと探偵の推論が収束してゆくようなかたちに少しずつ絞り込んでゆく。つまり、すべてが綿密に計画されたものでもなく、かといって、いろんなことが偶然に重なって上手くいってしまったということでもなく、犯人は、その場その場で上手く偶然を取り込みつつ、事態の進行のなかで犯行を構築してゆくのだ。