●お知らせ。3月6日付けの東京新聞、夕刊に、東京都現代美術館でやっている「ガブリエル・オロスコ 内なる複数のサイクル」展のレビューが掲載されます。
●オロスコはとても興味深い作家だと思った。おそらく、アクターネットワーク論とか現代の人類学とかをかなり分かっていて意識していると思うのだけど、そういう素養がモロに出てしまう感じではなく、素朴さと茶目っ気と軽いケレンが常にあるところが、いい感じとも言えるし、もしかするとすごく狡猾に自然体を装っているのかもしれないとも思う。
どの作品もみんな「そこそこ面白い」のだけど、この「そこそこ」はかなり意識的にそうしているように感じた。作品を濃く面白くし過ぎると、「作品」や「作家」が強くなりすぎてしまって、ある流れが滞ってしまうという感覚があるのではないか。強い媒介、強いノードをつくらずに、かといって移りゆくままに任せるのでもなく、常に、ある関係性を、緩く固めて、そっと置いておく。オロスコにとって、壁にくっつけられたカップ麺やシーリングファンに張り付けられたトイレットペーパーのような軽くてはかない(インスタントな)関係性-作品も、石に幾何学模様を刻んだ彫刻や切断されたシトロエンなど一見堅牢に見える重厚な構造物も、どちらも等しく「ある関係性が一時的に留め置かれたもの」でしかなく、そしてその関係は仮のもの、偶発的なものなのではないか。つまり、運命の出会いのようなものではなく、たまたま傘を忘れた日に限って雨が降った、という程度の事件として作品がある感じ。
(勿論そこには、そのような偶発的な出来事や関係のなかにこそ、この世界の重要な真実が反映されている、というような思想があるのだろう。)
手早くつくられた短い寿命のもの(関係)も、じっくりとつくられ長い寿命をもつもの(関係)も、どちらも偶発的で一時的なもの(関係)であるという意味では等価であるというような、等価性の感触によって様々な素材や方法で関係を紡いでゆく。
(ルールへの注目も、それが可変的であると同時に、たまたまそう定められればそれ従わなければならないという絶対性をもち、しかしそれも所詮ゲームのルールであり遊戯の範疇であるという軽さをもつ、というところからくるのではないか。その時、その場でだけ通用するルール=短い寿命の作品-関係も、長く長く適用されつづけたルール=寿命の長い作品-関係も、どちらにしても、ルールとは何かしらの秩序-関係を一時的に持続させる、あるいはある行為を反復的に生み出すものであろう。)
魚の群れの動きが一瞬だけふっと同期して、すぐにバラバラになったとする。その一瞬の同期を、あと三秒だけ引き伸ばしてみたらどうなるのか。オロスコのやろうとしているのはそんな感じのことなのではないか。作品とは、世界という地からメタ的に引っ張りあげられて「作品」とタグが付けられたもののこだと言えるが、オロスコの作品はその引っ張り上げの高さが少ないのではないか。
そして、そういうものをともかく「作品」として認めている「現代美術」という文脈は、そうそう悪いものではないかもしれないと思った。
●真夜中というより朝方に近い時間に目が覚めてトイレに行く途中、廊下の先の窓から見える西の山の端にいまにも沈みそうな月が異様に大きくてオレンジの妙な光で、その光がまっすぐすうっと射し込んでいて、たまたまこんな時間に目覚めたおかげでこんな月が見られたのだと思い、たまたまぼくが目覚めた時間に月がそこにあったから月と窓とぼくとの位置関係によってこの場面があるのだと思い、時間は朝方でもまだこんなに暗いから月がこんなに明るいのだと思い、しばらく立ち止っていていた後に携帯のカメラで撮ってみるが月の大きさは写真に写らない。