2022/08/06

●『初恋の悪魔』、第四話。我ながら、そんなところでばっかり痺れるのもどうかと思うけど、松岡茉優が撃たれた場所と、佐久間由衣が撃たれた場所が同じ(右の鎖骨の辺り)ということに気づいた時に、ゾワゾワッとした。さすがにこれは物語内容としての関連はないだろうが、むしろ、ないだろうからこそ、この細部の響き合いに痺れる。

●今回は、柄本佑回ではないかと予測したが、柄本佑回とまでは言い切れない感じだった。とはいえ、二話の「事件」が仲野太賀の感情(兄への感情)とリンクし、三話の事件が松岡茉優の感情(記憶への不安)とリンクしていたのと同様に、四話の「事件」は柄本佑の感情(恋愛対象が傷つけられた)とリンクしており、また、柄本の意外な才能(数学能力)が引き出されもした、という意味では、ギリギリで柄本深堀り回と言えないこともない。

そもそも、一話で、最初に四人で集まって推理をするという行為がはじまったきっかけもまた、柄本の感情(佐久間由衣が刑事課であまりに軽く扱われている)だったので、ここで一周まわって最初に戻ったということだろう。一話の「事件」では、事件と佐久間の間に直接関係はなく、事件を懸命に捜査する佐久間に対して刑事課がひどい扱いをすることが柄本の動機となっていた。しかし、四話の事件では、佐久間が犯人から直接傷つけられるという事態になったので、推理をする条件として最初にたてられた「被害者に同情しない」「誰も裁かない」というデタッチメントの制約から外れてしまった。

(「片思いはハラスメントの入り口だ」という言葉を口にするくらいに自己抑制の強い柄本でさえ、感情は暴走してしまうのだ。)

一周まわって、四人で集まって一話完結の「事件」の推理をするというフォーマットが林遣都によって自己否定され(我々のやっていることは---自分勝手に他人を裁いている---犯人と何も変わらない)、今回はじめて「刑事課」が自力で(柄本の数学力によってでも、林の推論によってでもなく、警察権力が特権的にもつ情報収集力によって)犯人に到達したことで、次回以降はフェーズが変わってくるのだろう。

(事件に関して、そもそも被害者にはドローンが見えているはずではないか、というツッコミもあるが、まあ、それはそれとして…。)

●次回以降は、林の停職の原因などにも触れられていくのではないか(風呂屋に拳銃を置き忘れる、というのはどういう状況なのか?)。少々極端な猟奇犯罪マニアであることを差し引くとしたら、林が警察の捜査に対して持つ不満は、そこに「推論」を働かせる余地がないということだろう。警察には、警察だからこそ持ち得る特権的な情報収集力があり、「犯人」はそこからおのずと導かれる(四話の犯人は、推理によって導かれたのではない)。警察による犯人逮捕の12パーセント以上が、防犯カメラやドライブレコーダーによるものだ、というセリフもあった。警察には---もちろん、「法」による制限はあるが---個人の秘密に土足で踏み込む権限があり、林はそれに対して違和感(あるいは拒否感)をもつのではないか(でも、林は隣家を覗いているのだが…)。

とはいえ、実際に事件を捜査するのは警察だし、犯人を裁くのは裁判所であって、停職中の刑事である自分(林)には、事件を捜査する権利すらない。林はこの点について自覚的だし、自己抑制的だ。林は、自分の動機によって事件を推論するのではなく、常に「友人たちの動機」にほだされて(共同で)推論を行う。彼は「犯人を当てる」ことそれ自体に歓びを見出しているのではない。林にとって重要なのは友人たち(仲野、柄本、松岡)との関係の方であり、関係に巻き込まれる形で、推論が行われる。

四話において、林は友人たちに対して二つのことをしている。一つは、「犯人のゲーム」に乗っかってしまっている友人たちを、ゲームから降りるように示唆する。今回の「推論」は、友人たちをゲームから降ろすために行われる。そしてもう一つは、感情に任せて犯人を裁こうとしている柄本を抑制させる。そのために林は、推論を中断する。推論の立ち上げも中断も、どちらも友人たちのためにしたことであり、この点をみても、林が「推論そのもの」を楽しんでいるわけではないことが分かる。

(普段はクールで、状況に対して傍観者的な視点を維持しているようにみえる柄本佑も、佐久間由衣が絡んでくると、冷静さを失い、デタッチメントを貫けず、状況のなかに踏み込んでいって、まさにそれによって「犯人の思うつぼ(犯人のゲーム)」に巻き込まれてしまう。一話における柄本の動機は、あくまで「佐久間を喜ばせる(佐久間の苦労が報われるようにする)」であり、だからこそ「事件」から部外者として距離をとることができたが、今回の動機は、「佐久間を傷つけた犯人を裁く」になってしまって、「事件」そのものに当事者的に巻き込まれているので、この「推論」は完成されてはならないのだ。この点で林は、倫理的に一貫している。)

(松岡に好意をもっているという点で、林と仲野は鏡像的であるが、ともに片思いの状態にあるという点では、林は柄本と鏡像的関係にある。だからこそ林は、柄本の「感情の暴走」を理解し、それを抑制しようという行為にでると考えられる。つまり、前回が林と仲野の鏡像的関係をめぐる話だったとすると、今回は、林と柄本の鏡像的な関係の話だと言えると思う。)

●「俺、好きな人いるんで」と言う仲野太賀に、即座に「きっと、絵でできてる人よ」と母親が返すところで爆笑してしまった。出演場面は少ないが、「親」という存在がナチュラルな暴力であることを、このドラマの仲野の両親(篠井英介、中村久美)は見事に体現している。どうみてもオタク要素ゼロの仲野に対する驚くべき「決めつけ」と、そして「絵でできてる人」という言い方。ぼんやり知識のままで断定的に紋切り型を押し付ける人が、いかにも使いそうな言葉だ。いわゆる「名セリフ」に反応するのは嫌なのだが、これはさすがに「さすが」だと思った。

(全体の構成からみれば、この場面は、後に伊藤英明を仲野の部屋に呼び込むため---反復をつくりだすため---の「前振り」のような場面なのだが、役割としては前振りでも、場面そのものとしてすごく濃い。)

(追記。親の側の主観からすれば、婚約破棄されてしまった息子を元気づけようとしてなされた振る舞いなのかもしれない。しかし、よかれと思ってしたこと---「良い意図」によってなされた行為---が結果として暴力になってしまうことは、しばしばある。)