●『オルター・ポリティクス』(ガッサン・ハージ)、第2章まで読んだ。この部分では、著者による世界の現状分析というか、現状認識が示されていた。そしてそれは、ぼくにとってはとても説得力が感じられるものだった。「よいことをする」あるいは「よい方向へと向かう」ということではなく、今あるものを「守る」、あるいは「危機を耐え忍ぶ」ことを優先させる(よしとする)ような空気がいたるところに蔓延している、と。
以下、引用、メモ。
●戦時社会と非-戦時社会
《戦時社会(warring societies)とは何だろうか。まず、それは戦争中の社会体制のことでは必ずしもなく、恒久的な戦争へと向けられている社会である。》
《(…)どの社会でも、善い生は物質的、感情的、もしくは精神的なものとして、文化的に定義される。またあらゆる社会は、その社会にとって「善い」生とみなされるものなら何でも、守らなければならない。こうした固有の善のあり方を守ろうとすることなく、その社会に固有の善のあり方をつくり出すことができるというのは、理想論というものだろう。その結果、あらゆる社会において、その社会内の「善」を守るということは、「悪い」ことをするということが伴うことになる。民主主義を守るために、社会は非民主主義的な活動に関与する。法の支配を守るためには、社会はある特定の側面では法の支配を棚上げせざるをえない。愛すべき社会を守るために、それを蝕もうとする人々を憎まねばならない、といったふうに。こういった状況は、近年ジョルジュ・アガンベンやカール・シュミットにならって「例外状態」として次第に理論化されてきた。》
《(…)ある社会がそうした「悪く」て、「例外的な」防衛活動に関わっているかどうか、という問題ではない。あらゆる社会が、そうしたことをしている。こうした「悪い」行いと、社会がそのようにして守ろうとしている「善い」行いとの関係性が、それぞれの社会で異なっているということなのだ。戦時社会と非-戦時社会を分かつのも、この関係性である。非-戦時社会においては、善い生の享受が「悪い」防衛の営みよりも優先されている。》
《(…)「悪い」行いは、守ろうとする「善い生」の善さを妨げることがないように、なるべく禁じられる。たとえば、もし拷問が行われるのであれば、それは「闇で」行われるのである。拷問によって、社会の内部の善きものが侵害されるようなことはしない。》
《戦時文化を定義づけるのは、こうした抑圧され、例外的で「悪い」ことであるはずの防衛のメカニズムや活動が、それが守ろうとしている社会の「善い」ことにおいて表面化しはじめることなのだ。それらは内なる文化の一部として受け入れられ、やがてはそれを穢し、影響を与えていく。その防衛メカニズムは、それらが守っていたはずの善い生の生産と分配のメカニズムを徐々に侵食していき、もはやそれに従属するものではなくなる。(…)人々は自分たちが守ろうとしていた善い生を忘れてしまい、守ること自体が社会の公共文化を構成する核心的な要素となる。こうして、公共善を守るために拷問をする必要があるかどうかをおおっぴらに論じることが、「正当な」ことになっていく。》
●徴兵制的現実主義(?)
《(…)徴兵制にはひとつの重要な意味がある。そこでは命令に対するいかなる疑問もなく、命令を遂行することだけが求められる---「お前たちは俺たちの仲間なのか、それとも敵なのか」というわけだ。徴集兵とは、自分の立場や受けた命令について反省する(reflect)することが許されていたり、反省したいと思う人々ではない。「僕はなんでこんなことをしているんだろう?」などと言ってはいけない。》
《実際、反省しようとする人たちは、ただ単に「やってしまう」のではなく、「やってしまうことについて考えること」に時間を費やしているがゆえに、裏切り者だとみなされる。この世界に反省的かつ批判的に関与しようとする者は、「本当(リアル)の生活」と関りがない、おしゃべり野郎、つまり「学者センセイ」---この場合、この語は劣った存在のあり方を表すのに用いられる---とみなされる。そういった人々は、事態の緊急性から距離を置こうとするがゆえに、疑うことなく団結することの必要性を理解しない。》
《こうして、批判的知識人とは一般人を見下し、一般人が心配していることを嘲笑するエリート階級だと、保守的な評論家によってますます印象操作されていく。》
《(…)このタフで男らしい兵士の視座(パースペクティブ)からみえる「本当(リアル)の世界」からは、それが「何でありうる」のか、という潜在的可能性が次第に失われていく。一般に、これまでさまざまな哲学者がさまざまな仕方で理論化してきたように、現実(リアリティ)はつねに、それが何であったか(what has been)、何であるのか(what it is)、そして、何でありうるのか(what can be)ということから成り立っている。だが、「何でありうるのか」は、究極的に不確実性やリスクの領域である。(…)徴兵された市民はこうした領域から完全撤退し、「何であるか」と「何であったのか」しかない保守的な領域に生きている。》
●危機=批評の失効と「ドツボにはまること」
《(十九世紀半ばから七〇年代まで)危機においては、ふたつのことがもたらされるとされた。まず、社会変革を起こしうる、社会的再生産の仕組みの構造的亀裂が明白になること、そして既存の社会構造の再生産にはもはや与せず、変革の実践に関与する政治的主体が台頭することである。危機をめぐる批判的思考の機能とは、こうした亀裂や革命的主体の存在を見つけ出すか、明確にすることであった。そのような批評には、その時代の急進的な思考を特徴づける変革に向けた社会的断絶の可能性についての、根源的な信念が反映されていた。ゆえに、それは本来、希望に満ちたものであった。》
《だが二〇世紀の半ばに始まり、とくに世紀末にかけて一般化された、資本主義の社会・経済・制度として生起した重要な変化は、ひとつの危機から別の危機へと絶え間なく波及していった。ゆっくりと、ファシズムの勃興から始まり、次第に、社会変革の機会の必然性よりも、恒久的に続く危機の状態こそが資本主義の経済と社会の再生産をまさに保証する方法なのだという認識が高まった。同じように、危機の主体は社会変革に関与する政治的主体の出現につながるというよりは、どちらかといえば革命的ではなく保守的な主体であるように思われる。このようにして、資本主義の危機への根源的な批評は、そのような批評の危機に取って代わられたのだ。》
《(…)もし近年の新自由主義が、恒久的な危機という状況を保守的な統治の技法にすることに成功していると考えるのであれば、危機の現実(リアリティ)を、後付けで主観的に解釈されなければならない所与の現実としてではなく、危機を生きる支配的なあり方そのものだと考えることが決定的に重要だと考える。なぜなら、この統治性のあり方を規定するもっとも重要な特徴のひとつが、実践的で情動的なもの(practico-affective)の秩序だからである。この秩序は、この種の政治体制が危機と、社会的危機をしばしば特徴づける感情の激化そしてルーティン化のあいだに創出しうる緊密な関係性とともに成立しなければならない。これが、私が「ドツボにはまること(stuckedness)」と呼ぶ、ある人が自分自身を実存的に「行き詰っている(stuck)」と経験する感情や状態である。》
●「ドツボにはまること」の二重性とそれによる(自己)統治
《ここで私が論じるのは、私たちが生きている恒久的な危機という社会・歴史的状況がこのドツボにはまる感覚を増殖させ、強化してきたということである。さらにいうと、ドツボにはまることが日常化しているという感覚が増大しているのだ。それはどんな代償を払ってでも抜け出すべき状況としてではなく、耐え忍ばなくてはならない、避けられない病的状態として、両義的に経験されることもあるのだ。「危機というドツボにはまること」が、ある種の忍耐力のテストに変わっていく過程を本章で考察していく。後述するように、危機に対峙する際に、変化を求めるのではなく我慢する力が称賛されるという在り方は、待つこと(waiting)の特殊な経験のされ方であるが、より一般的には「耐えて、しのぎ切ること(waiting it out)」といわれるものだ。》
《(…)オーストラリアでもっとも有名なスキーリゾートで一九九七年七月に起こった土砂崩れで、多くの人が地面と瓦礫と雪に埋もれて亡くなった。ただひとり、コンクリートの壁の下で動けずに(stuck)いたスチュアート・ダイバーという人物が、氷点下のなか、瓦礫から救出された。オーストラリアのあらゆる人々が、彼の忍耐と生還を称えた。》
《このような英雄主義においては、英雄になるために必要なのは積極的かつ創造的に何かを成し遂げることではなく、我慢し続ける能力、いわば「上手に行き詰まる」能力なのだ。こうした状況において英雄であることは(…)ドツボにはまった状態に耐えて、しのぎ切ることなのである。》
《「耐えて、しのぎ切ること」とは、何かを待ちわびることではなく、寒い天気が続くとか歓迎されざる客とか、すでに来てしまっている望ましくないものが、終わるか過ぎ去ってしまうのを待つという、待つことの特殊なあり方である。待つことは受動的でも能動的でもありうるが、「耐えて、しのぎ切ること」はいつだって受動的である。だが、その受動性は、すでに指摘したように、両義的である。それはある要因や特定の社会状況に左右されると同時に、そうした状況に対して勇敢であろうとするからだ。先述した英雄的なあり方を可能にしているのは、この両義性である。そしてこれから論じるように、この両義性こそが、「耐えて、しのぎ切ること」を危機の際の自己管理や自己統治といった自制のあり方を推奨する、統治の道具にしているのである。》
《(…)今日、危機はもはや、市民に既存の秩序に対して疑問を抱かせる非日常的な状態だとは思われていない。むしろそれは平常の状態、あるいは、やや使い古された感のある概念を用いるとすれば、恒久的な例外状態だとみなされることが多いのだ。この意味で、危機を耐え忍ぶことは、良き市民であることの正常なあり方となる。だから危機を耐え忍ぶ能力があればあるほど、その人は良き市民なのである。御多分に漏れず、これには人種的、文明的かつ階級的な側面が伴う。待ち方を知らない者は、「下層階級」であり、非文明的な者であり、人種化された他者なのである。文明的で、おそらく英雄のイメージに近いのは、かっこよく行き詰る人たちなのだ。》
《(…)オーストラリアでも、難民を、自分の順番を待てない「列に横入りする人々(queue jumper)」だとする中傷がみられた。同様に、郊外で暴動を起こしたパリの少年たちも革命の先導者とはみなされない。フランス大統領の二コラ・サルコジが内務大臣時代に発言して有名になったように、少年たちは「クズ」だとみさなれている。(…)彼らを誹謗中傷する人々の多くは、彼らが特別に困難な状況を生きているとは考えていない。そうした人々にいわせれば、みんなが特別に困難な状況に生きているのである。》
《(…)古いマルクス主義者やサルトル主義者の感覚では革命的だったことが、「俗悪」で「拙速」で、非文明的で「適切に待つ」ことができないことだとされる時代に、「革命的であること」をどのように再想像できるだろうか。》