2022/08/04

●『オルタ・ポリティクス--批判的人類学とラディカルな想像力--』(ガッサン・ハージ)という本が気になっている。だが、ネットで目次はみられるものの、まったく未知の著者なので、どんな感じか中身をパラパラみて確かめてから買いたい。といっても、近くに大型書店どころかまともな本屋がなくて、買う前に実物を手に取ることは難しい。まあ、これはいつものことなのだが。

検索したら、ありがたいことに書評論文のPDFがあった。

<書評論文>オルタ・ポリティクス--批判的人類学とラディカルな想像力—(鈴木赳生)

researchmap.jp

これは興味深い。以下、上記の書評論文より引用、メモ。

●危機=批判の失効、これはまさに現状を言い当てていると思う。

《(…)ハージが度々引き合いに出すのが、F. ニーチェの「権力の感覚」という概念である。権力の感覚とは、たとえある者が客観的に有している権力の量が等しく変化しない場合でも感じられる、自身の権力が上昇しているのか下降しているのかの主観的感覚をいう。この概念の要点は、権力の量でなく感覚によって、権力をもつ者のふるまいが変化するという点である。つまり自身の権力が上昇していると感じる者は他者に対して寛容で慈悲深くふるまうが、反対に下降していると感じる者は、自分よりずっと弱い者に対してさえ不寛容で意地悪くふるまうという。》

《(…)サルトルは有名な集列体と融合集団の概念によって、人々が互いに孤立し大衆化した状態からいかにして歴史を動かす集合的主体となりうるかを考察した。集列体の例として彼が挙げるのがバス待ちの列であり、バディウはこのバス待ちの集列体が融合集団になる過程を、バスがやって来ずに人々が不満を共有する状態へと移行する場面として描き出す。つまり「待つ」ことで形作られていた社会秩序が、バスが来ないという「危機」によって崩れ(「待てない!」)、変革につながるという危機批判の物語である。だがハージによると現代では、まさにこの「待つ」という状態が危機下でも維持されつづけるのだという。人々は危機のなかでも危機が過ぎ去るまで待ちつづけ、「待ち切ること(waiting out)」をヒロイズム化する受忍の美学を共有する。実際には危機は人種や階級等の違いによって不平等に受忍されているにも関わらず、皆が同様の危機を耐え忍んでいるかのように錯覚され、危機に抗して正当な声を上げる人々は逆に非難されてしまう。こうした政治文化のもとでは、危機に変革の芽生えを期待するサルトルバディウ流の批判は効力を失ってしまうのである。》

●「アンチ」と「オルタ」の間で

《ハージは批判的思想のあり方をアンチとオルタという2つの理念型に分ける。アンチとオルタのモメントはそれぞれ、「既存の抑圧、支配、搾取に対抗しようとする欲求と、なにかよりよいものを創造しようとする〔それと〕同等の欲求」(p. 84)を指す。そして「本書が対抗政治よりもオルタ・ポリティクスを特別扱いするとすれば、それは『オルタ』のモメントが『アンチ』より重要だからでは」(p.1)なく、これまでの批判的思想の流れにおいてはオルタよりもアンチへの関心が強く、オルタな批判のあり方について十分に検討されてこなかったためである。そしてこのオルタな思考様式によって切り開かれる社会空間こそ、抑圧や支配からもそれらへの対抗からも自由な、人間らしい生の営まれる空間なのである。このような空間が必要なのは、抑圧され支配される人々は対抗しなければ不公正な現実を変えていくことができないが、同時に、対抗だけで生きていけるわけでもないからである。強固に対抗しようとすればそれだけ不正義への憤りや変革への強い意志が必要とされ、感情の大部分が投資されることとなり、日常を自由に生きる可能性は制限されてしまう。また支配と対抗のみでは、人々は敵/味方の論理で分断されてしまい、両者のよりよい関係性を築いていく可能性は失われる。》

《たとえば2人の人間の間に支配関係があった場合、社会学的批判あるいはアンチの観点のみからでは、支配/被支配の部分のみが拡大され問題化される。実際には人間関係は支配や搾取の論理のみでは捉えられない多元的なものであるにも関わらず、その多元性が捨象されてしまうのである。このように多数的な存在のあり方を単一のそれへと押し込めてしまいかねない社会学的批判に対し、人類学的批判は権力や抵抗、統治性、近代の外部に広がる空間を発見することで、既存の世界とはラディカルに異なる別様の現実へとわたしたちを誘ってくれるのだ。》

●抵抗的実践(アンチ)と、弾力的実践(オルタ)、戦略的に「忘れること」

《(…)イスラエルによる植民地主義と、その暴力に日々さらされながら生きつづけるパレスチナの人々が主題として、かれらの生きる術として抵抗(resistance)と弾力(resilience)という2つの概念が対比される。》

《ハージは「忘れる」という彼の言葉を、ブルデューの戦略概念とS. フロイトの排除概念を組み合わせ、「戦略的排除(strategic foreclosure)」として分析する。フロイトによればトラウマ的出来事を意識して忘れようとすることは多大な感情的消耗をともなうため、精神はただ忘れようとするだけでなく、忘れていることを忘れようとする。排除とはこの二重の忘却を指し、弾力的実践はある意味で排除と捉えられるとハージはいう。弾力的実践とは占領を忘れようとする意識的抵抗を超えた更なる忘却、つまり占領を意識せずに生きること、占領に「占領」された意識から逃れた人間らしい生を可能にする実践なのである。》

《だがここでフロイトのいう排除は永続的な精神状態だが、被植民地支配者は占領の現実を「決して忘れさせては」もらえないうえ、この意味での排除は抵抗の可能性すら排除し植民者のひとり勝ちを招いてしまう。ここで、ブルデューによる戦略概念の有効性が発揮される。彼のいう戦略とは忘却と相容れない意識的で合理的なものではなく、ハビトゥスが生みだす前意識的な次元における、状況への可変的な応答なのだ。戦略的排除とは抵抗を不可能にしてしまう一回的な転換ではなく、日々さらされる暴力的現実にときに抵抗しながらも占領と抵抗とに完全に「占領」されない日常を送るための、可変的なハビトゥスなのである。このように抵抗的実践と弾力的実践とを行き来することで、アンチとオルタの2つの生き方の均衡を保つことが、占領下で暮らす人々の生きる術なのだ。》

《(…)ハージのオルタ論はアンチの対抗政治を否定するものではなく、対抗に没入し擦り切れてしまいかねない生を問題化し、アンチとオルタのゆらぎのなかで生の自由を確保しようとする思想なのである。このゆらぎの状態は、人が生きていくなかで抑圧や暴力によって刻み込まれた敵対感情と自分を切り離すことで、はじめて可能なものとなる。観念や象徴の次元で二項対立を止揚するといった認識論的オルタナティヴを見出すだけでは、人が自らの存在と分かちがたく結びついた強い敵対感情にとらわれず生きる、現実的な可能性は生まれない。》