2021-08-14

●まだ、「第一部 窓」を読んだだけだが、ウルフの『灯台へ』の鴻巣友季子・訳がとてもいい感じなので、東工大の講義はこの訳をもとにして行おうと思った。(こちらもとても好きな) 伊東只正の訳と比べてみるというのもいいかもしれない。

話者も含めた、様々な登場人物たちの「声」が自由間接話法によって立体的に交錯するこの小説の「第一部」の「場」を、それでも「支配」しているのが、ラムジー夫人の配慮と策略、そして(自身も充分に自覚している)その美しさだろう(あるいは、ラムジー夫人という存在)。ラムジー夫人の支配に対して、対抗的、批判的な視点であり得ているのは、リリーという登場人物ただ一人であろう(対抗的であるわけではないが、クライマックスだと言える晩餐の場面で、ラムジー夫人の子供であるジャスパー、ローズ、アンドルーと、詩人であるオーガスタ・カーマイケルは、彼女の支配の磁場から逃れている---別の流れの元にある---とは言えるかもしれない)。

ラムジー夫人は「場」を支配しているが、制御しているわけではない。とはいえ、第一部において、舞台となるスカイ島の別荘という場所とそこに集う人々は、ラムジー夫人という人物を表現するために、彼女を「存在させる」ために、この小説という世界に動員されたかのようだ。彼女はこういう世界を生きた、彼女を彼女として存在させているのは、このような環境であり、このような人々との交流であった。ウルフのような作家が、自由間接話法という前衛的な手法を駆使して、保守主義の権化ともいえるラムジー夫人のような人物を存在させる(描き出す)という逆説。第一部だけをみるとそのように見えるが、しかし、そのようなラムジー夫人はすでに過去の人であり、もう存在しないというのがこの小説が描いていることであり、あるいは、かつては確実に存在したということを、この小説は描いている。

あるいは、ラムジー夫人が圧倒的に支配する場において、その場のなかに、そこにはどうにも収まらない、リリーという視点が生まれている、ということが書かれているとも言える。リリーは、ラムジー家のすべてに魅了されながらも、その存在のあり様として、ラムジー夫人とは相容れず、彼女に対する批判となっている。だからこの小説が描いているのは、ラムジー夫人の場において、すでにリリーのような存在が生まれている、ということでもあるだろう。あるいは、ラムジー夫人という存在とリリーという存在が、排他的ではなく共存している場を描き出す、というのが、この小説がしていることかもしれない。

(今回この小説を読んでいて思い出したのは、夏目漱石の『文学論』の「F+f」で、漱石はやはり英文学の人なのだなあということだった。あるいは、ウルフは---自由間接話法というだけでなく---その辛辣さにおいて、ジェイン・オースティンの血をひく作家なのだなあ、と。)