2021-09-12

●『ふたりの真面目な女性』(ジェイン・ボウルズ)。ふたりの女性、ミス・ゲーリングとコパーフィールド夫人。ゲーリングは「救済」を求め、コパーフィールド夫人は「幸福」を求めて、それぞれ安定したブルジョア的生活から外れていく。ゲーリングは超越的な啓示に従って恐怖の方へ向かっていく。コパーフィールド夫人は、超越性の不成立(神の不在)からくる「恐怖」から逃れるために安息と堕落の方へと向かっていく。ゲーリングは、自分に恐怖を与えるような男性の方へと向かっていき、危険な匂いのする男性からより危険な別の男性へと渡り歩き、コパーフィールド夫人は、自分を保護してくれるような女性たちの環境へ、そして特定の女性への依存の方に向かっていく。

この小説は、居場所としての家や部屋にまつわる小説でもある。ゲーリングは、郊外の立派な邸宅から、島のみすぼらしい小屋へ住処を移し、またそこから、本土にあるアンディの荒れ果てたアパートに移動する。ゲーリングがアンディと出会ったバーで、少女バーニーは通い慣れたそのバーを《古くからの友達》のような場所であり《家みたいなもの》だとして特別な愛着を示す。だがゲーリングは、そのような親しさや愛着を否定するように、慣れ親しんだ場所や人から離れること、移動をつづけることを自らに課しているかのようだ。

一方、コパーフィールド夫人からは、そのような慣れ親しんだ場所が奪われており(彼女は夫に連れられてパナマへの長い旅行の最中である)、居場所の不在に悩まされている。彼女の行動は、(夫が未知のものとの出会いを求めているのとは逆に)自分を保護してくれるような「親しい場所」を求めるという動機に基づいているようにみえる。コパーフィールド夫人は、滞在するためのホテルの雰囲気に対するこだわりを示し、ゲーリングとの会話に出てきた「解体途中の家」の話に強い恐怖を感じる。

多くの場合、ゲーリングが(既に持っていて)拒否するものを、コパーフィールド夫人は求めているようだ。コパーフィールド夫人が探し求めてようやくパシフィカという相手を見つけ、彼女への依存を深めていくのに対して、ゲーリングの元にはギャメロンという相手が自分の方から訪れてくれるし、後にはそのギャメロンとの関係を捨ててでも移動をつづける。ゲーリングは宗教的な人物であり、超越的な「法」のようなものが存在し、彼女は「~したい」ではなく「~しなければならない」という基準で行動するが、コパーフィールド夫人は超越的な審級(神)が不在の世界の「恐怖」のなかを生きている。コパーフィールド夫人は夫を愛している(そして夫は差別的な言動を許さないような立派な人物だ)が、同時に、夫といるとどうしても「夫に支配されている」と感じてしまい、苦痛でもある。ゲーリングは、超越的な「法」に支配されていることをポジティブに捉えていて、それが自分を《聖人に近づ》けていると考える。

ゲーリングが従う「法」の内実はよくわからないのだが、積極的に「恐怖」を感じるものの方へ向かっていっているように思われる。一方、コパーフィールド夫人は「恐怖」から逃れようと行動する。だがここで、ゲーリングが積極的に対峙する「恐怖」と、コパーフィールド夫人が逃れようとする「恐怖」とは、その質や内実が異なっているように思われる。

ゲーリングの行動は、自己否定を肯定することを旨とするように見え、彼女は自分に危害を加えそうな雰囲気をもつ男性や、現在の自分のあり方を否定するような態度をとる男性に惹かれていく傾向にある。彼女の「恐怖」はそのような者たちに触れることからくる。たとえば、アーノルドの父は作中で最も「嫌な奴」として書かれているように思われるし、初登場から印象が悪く、嫌な感じでゲーリングに絡んでくるのだが、ゲーリングはそんなアーノルドの父に対して初対面からずっと一貫して好意的で同情的である。また、後に生活をともにするアンディだが、バーで初対面時には、バーニーの服装の乱れにあからさまに性的興奮を示しているようなやばい奴だとゲーリングは感じている。最後に登場する男性ベンも、《マンモスのように巨躯》だとされ、ゲーリングを娼婦だと決めつけて譲らない。《一、二度彼の顔を盗み見ただけだったが、その恐ろしさに、彼女は二日間、それ以外ほとんど何も考えられなかった》。ゲーリングは、より強く「現状の自分」を否定し、より強く危険を匂わせるものの方へ向かうようなのだ。

一方、コパーフィールド夫人が惹かれていく女性たちは、パシフィカもクウィル夫人も、夫人が嫌うペギーでさえ、ふつうに魅力的に描かれている。コパーフィールド夫人は「恐怖」から逃れるために、彼女たちの集うホテル・デ・ラス・パルマスにやってくる。しかしこの「恐怖」は、彼女に直接的な危害を与えるものに対する恐怖ではない。超越的な審級を信じることのできない世界で、親しみを感じられない未知のものに触れる時に発生する、茫洋とした「恐怖」であるようだ。夫のコパーフィールドは彼女の恐怖について、《はじめて感じた痛みをそれが磁石でもあるかのように胸に抱いて持ち運んでいる》として、《最初の恐怖から最初の希望へと逃れようと》する行為を繰り返しているとする。そして、そうではなく《次の悲劇を戦う舞台》へ進むべきだと手紙に書く。だがコパーフィールド夫人は、そのような夫から離れ、娼婦たちの集う女たちの環境へと身を寄せる。そして、朝の海で、自分の存在のすべてをパシフィカに預けるような体験から、深い充足感と高揚を得て、パシフィカにより一層強く惹かれるようになる。

この、分身のようであり対照的でもある「ふたりの真面目な女性」は、小説の最後の場面で会い、互いに相手に対して否定的な感情をもつ。互いに好意を抱いていた相手だったが、失望を感じる。かつてゲーリングを崇拝していたコパーフィールド夫人だが、今ではパシフィカに夢中でゲーリングにはあまり関心がないようだ。そして、小説の最後の部分の、あまりにそっけない無関心が、かえって印象深いものとして残る。

《「確実にわたしは聖人に近づいていっている」と、ミス・ゲーリングは考えていた。「でも、自分にも見えない自分が、コパーフィールド夫人のようにすごい勢いで罪を重ねていく、ということがあるのではないかしら?」ミス・ゲーリングは、その可能性を少なからず興味深いが、さして重大ではない事柄だと考えた。》

「救済」と「幸福」とは、互いに無関心なまますれ違う。ミス・ゲーリングとコパーフィールド夫人とは、まさにどちらも相手に対して《自分にも見えない自分》という関係にあると思われるが、自分の分身に対するびっくりするほどの「関心の薄さ」が示されて終わるのがとても面白い。