2021-09-13

●『ふたりの真面目な女性』(ジェイン・ボウルズ)では、基本としてミス・ゲーリングかコパーフィールド夫人に寄り添っている。つまり、ほとんどの場面でこの二人のうちのどちらかが存在している。ただ、語りの視点が二人から外れる場面もあって、一つが(コパーフィールド夫人のパートで)、クウィル夫人がトービーという男とホテル・ワシントンを訪れ、クウィル夫人が置き去りにされる場面。トービーはクウィル夫人を丸め込んで仕事と資金を調達しようと接近するが、夫人に財産がないことを知って置き去りにする。もう一つが(ミス・ゲーリングのパートで)、アンディが自分のアパートの部屋で三人の経営者と会って商談しようとする場面。アンディは三人に対して投資を申し出るが相手にされない。どちらもお金にまつわる話で、クウィル夫人もアンディも侮辱され、屈辱を味わうことになる。

ただ、この二つの場面は、突飛で新鮮な展開を見せるこの小説のなかでは「普通」の感じで、つまり、場面としていまひとつおもしろくない。アンディの投資話は短くてさっと終わるし、ちょっとカフカっぽい感触もあるのでつまらなくはないのだが、クウィル夫人とトービーの会話は、読んでいて「ここ、いつまでつづくのかなあ」と思ってしまうこの小説で唯一の場面だ。ならば、この二つの場面はなぜ必要なのだろうか。

この二つの場面からミス・ゲーリングとコパーフィールド夫人が外されているのは、彼女たちには十分な財産があり、彼女たちがお金の話で困ったり、屈辱を味わうことになったりすることは考えられないからだろう。逆からみれば、この二つの場面が必要だったのは、この小説で描かれる「ふたりの真面目な女性」たちは、どちらもお金に困ることのない、特権的な立場にいる人物であるということを読者が「忘れないように」するためだろうと考えられる。普通の人はお金で困るのだが、彼女たちはそうではない人々なのだ。さらにいえば、彼女たちの階級の通常の生活であれば、深くかかわらないような人たちと、意識的、積極的にかかわろうとしているのだ、ということを示してもいるだろう。彼女たちは自ら救済や幸福の探求のために、出発点からとても遠くまで進んでいるのだ、と。

ホテルでの飲食代を未払いのままトービーに置き去りにされた(持ち合わせの少ない)クウィル夫人の困難は、コパーフィールド夫人によって難なく解決される。コパーフィールド夫人にとってその程度のお金は何のこともない。また、アンディが堕落した生活を立て直そうと努力をはじめ、お金のことを真剣に考えるようになると、ミス・ゲーリングは彼への興味を失う。金のことを考える男など彼女にとってはつまらない存在なのだ。彼女たちに、既成の価値や習慣に捕らわれない「探求」が可能なのは、経済力によって既成の価値や習慣の縛りから逃れられているからでもある。

だから、読者(ぼく)に、クウィル夫人から金を巻き上げようとするトービーの場面や、資本家と交渉して利益を得ようとするアンディの場面が、ほかと比べて精彩を欠くように感じられるのは、読者(ぼく)もまた、ミス・ゲーリングやコパーフィールド夫人と同じような価値観で(同じような立ち位置で、あたかもお金のことなど考えなくてよい存在であるかのようにして)この小説を読んでいて、トービーや立ち直ろうとするアンディを「凡庸な人物」だと感じるからだろう。実際、特にトービーは本当につまらない人物なのだ(つまり、トービー的な卑小さを魅力的に造形することはうまくいっていない)。だが、この世界の現実には、トービーのような人物で溢れている。そして、トービーにはトービー的であるしかない事情がある。

コパーフィールド夫人は、同志のように感じていたクウィル夫人が、飲食代を立て替えてもらったくらいのことで卑屈になり、自分に余所余所しく接することに失望する。彼女には、たかだか少額のお金のことで卑屈になってしまう人のことが理解できない。また、ミス・ゲーリングは自ら進んで貧しくみすぼらしい生活を送っているが、自分の意志でそうしているのであって、お金に困ることはない。だから、資本家たちからまともに扱われなかったアンディの屈辱は理解できない。ミス・ゲーリングがベンから「娼婦」だと決めつけられても侮辱と感じず、むしろその「決めつけ方」に好意すら感じるのは、彼女は自分の意志(彼女を導く「法」)以外の理由で娼婦になることはない(経済的な理由で娼婦であることを強いられることはない)からだろう。

だから、二人の女性が存在しない二つの場面が示しているのは「階級差」であるだろう。それは、彼女たちがそのような階級の壁を越えて行動しているということであり、しかし同時に、そうだとしても、そこに階級差は依然として存在しているということでもある。アンディの荒んだアパートにいるミス・ゲーリングや、娼婦たちの集うホテルのバーにいるコパーフィールド夫人は、あきらかに異質な、浮いた存在である。アンディのアパートに一瞬だけ姿をみせたミス・ゲーリングを見た三人の資本家たちは、「この場」にそぐわない女性が現れたことに困惑し、アンディも「資本家たちの困惑」を当然だと感じて恥のような感情をもつ。

コパーフィールド夫人がパシフィカに強く惹かれるのは、彼女が階級差を認識しながらも、それによって卑屈になることがない希有な人物であるということも理由の一つだろう。娼婦でもあるパシフィカは、同性愛の甘美な経験を語るコパーフィールド夫人に、非難するようなニュアンスを含まず、たんに事実を指摘するように次のように言う。《女の子たちのなかにはもうひとを愛することのできない娘だっているんだもの。お金のことしか頭にないのよ。あなたはあまりお金のことは考えないでしょう?》。