●『ヘウォンの恋愛日記』(ホン・サンス)をDVDで。『ソニはご機嫌ななめ』は、構造的にひねった作品(「ソニは存在しない」的な)だったけど、こちらはストレートに主人公ヘウォンの話。ヘウォンのための映画。
すごく面白くて、90分の間瞬きをする余裕もないくらいに見入ってしまったのだけど、観終って、何が面白かったのか、どうして面白かったのか考えようとしても、夢を見ていたみたいにつかみどころがない。
この映画の物語は、書かれたものとして語られる。主人公のヘウォンがテーブルで日記を書いている。そこに書かれているであろう文章が、ナレーションとして語られ、物語に入って行く。しかし一方、ヘウォンはその同じテーブルで居眠りをして、夢を見る。つまりこの映画は、書かれたことと、見られた夢によって(テーブルの上で)構成されている。
ある場面を観ている時、その場面が、書かれた事(一応、現実とみていだろう)なのか、見られた夢なのかは分からない。場面の後に、テーブルに突っ伏して寝ているヘウォンの姿が映し出されることで、前の場面が夢であったことを知る。しかし、夢の場面はそう多くはない。多くはないとしても、夢が混じることで、夢的な感触が、そうではない場面にまで散布されることになる。
ヘウォンがジェーン・バーキン(本人役)に道を聞かれる場面がある。たまたま通りすがりのジェーン・バーキンと行き当たり、道を聞かれたヘウォンは、わたしはあなたの娘さんが大好きです、彼女は本物のアーティストです、みたいなことを言う。そしてジェーン・バーキンは、あなたはわたしの娘に似ている、みたいなことを言う。だが、それは夢で、その後、(おそらく離婚して)カナダに移住するという母親と会う場面がある。
この、夢と現実の関係は分かり易い。ヘウォンが母親からの承認を得たい(というか、自分が思う自分の理想像を母の口から聞きたい)という思いが夢になっている。そして現実の母親は、夢のなかのジェーン・バーキンを模倣するかのように、(ヘウォンの望み通りの)娘を承認するようなことを言う。あなたはしっかりしている、あなたは大丈夫、と。
(しかし、そう「大丈夫」そうでもない感じの場面がつづく。母親が「あなたは美人だから、ミスコリアを目指せばいい」と言うと、ヘウォンが立ち上がって、ふざけてウォーキングの真似をするが、その後いきなり走り出す。それは、糸の切れた風船みたいなとりとめのない走りで、とりとめのないヘウォンの走りを、パンするカメラがとりとめもなく追っていって、このとりとめのなさがいつ終わるのかわからない感じでとりとめもなく続く。この場面が、ヘウォンの不安定な感じをよくあらわしている。)
夢と現実との関係は分かり易いが、しかしここで、現実が夢より遅れて、まるで夢を模倣するかのように展開することが、その区別を危うくしていると言える。さらに、現実であるはず母親との場面で、いかにもわざとらしく伏線を張るような、しかし伏線としては機能しない、妙な「ほのめかし」的細部が見られる。そして、母親と二人の場面の、道端に捨てられたタバコの吸い殻→古本屋→カフェという道行きは、その後の展開で何度か反復されることになる。つまり、現実の場面の方が夢の場面より「あやしい感じ」になっている。
母がカナダに発った後、寂しくなったヘウォンは、別れたはずの男を呼び出すことになる。ここから後の男女関係の展開になると、夢と現実との区別があやしいという感触はなくなる。むしろ、生々しい、リアルな痴情話の感触が全面に出てくる。男女関係の展開の部分だけを見ると、ほんとうにシンプルな映画で、一本の映画を、演技と演出だけで成り立たせている、という感じになる。演技と演出によって、揺れ動いている一人の女性を存在させている、と。そういう映画としてだけみても、かなりすごいもので、多くの俳優が、ぜひホン・サンスと仕事がしたいと願うのも納得できる。
(ここにも夢が出てくる。人に言えない秘密の関係の苦しさから、ヘウォンはふいに、大学の友人にすべてを告白してしまう。だがこの場面は明らかに不自然なので、途中で「夢」だろうと気付く。つまり、ここでは夢/現実関係はそれほど揺らがない。)
(ホン・サンスの映画に飲み会の場面は不可欠だが、特にこの映画の男女関係の展開のなかで現れるワンカットで撮られた学生たちとの呑み会のシーン――ヘウォンがトイレに行っている間に彼女の悪口大会になってしまう場面――は特にすごいのではないかと思った。)
だが、この映画で、最も不自然で、ヘウォンにとってあまりに都合が良過ぎるだろうという出来事は、夢ではなく現実として描かれる。それによって再び、夢と現実の区別が怪しくなる。ヘウォンは、アメリカの大学の教授であり、マーチン・スコセッシとも親しいという男から声をかけられ、結婚したいとまで言われる。この男は恐らくヘウォンにとって理想的な(というか、女優志望であり、不倫関係で苦しんでいる彼女には、あらゆる面で都合がよい)存在であろう。普通に考えればそんな上手い話があるはずはなく、あったとすれば男が嘘をついているとしか思えない。しかしここでヘウォンは、夢のなかの出来事ならばどんなに不合理でも受け入れてしまうのと同じように、このあまりに虫の良すぎる出来事を受け入れてしまう。
(逆から言えば、あまりにご都合主義的なこの展開を観客が受け入れられるのは、映画序盤に、ジェーン・バーキンの夢と母親との場面の間の不安定な関係があるからだろう。)
アメリカの大学教授は、進入禁止であるはずの場所にふらっと入り込み、そこでヘウォンを見初めるのだけど、その進入禁止の場所はヘウォンの夢の領域だとも言えるかもしれない。それはともかく、その男との出会うという出来事をきっかけ、おそらくヘウォンは不倫関係の解消を(無意識のうちに)決意していると思われる。
(ヘウォンが男に別れを告げる場面で、彼女の友人であるという、もう一組の不倫カップルが対比的に登場する。このカップルのことはほとんど何も説明されず、いきなり「いる」感じなのだが、この二人の存在がすごく面白い。配置としての演出の妙というか、こういう場面で、こういう人たちを出してきて、こういう風に立たせるのか、みたいな。)
この映画の、ほとんどラストといっていいところで、もう一度、ヘウォンが机に突っ伏して寝ている場面があらわれる。場所は、大学の図書館であるようだ。大学の図書館は、不倫関係に苦しむスウォンが唐突に友人に全てを打ち明けてしまう「夢」をみた場所だった。これは何を意味しているのか。
普通に考えれば、いろいろあったヘウォンがまた大学へ通うようになり、しかし、不倫のいざこざから友人たちとも距離をとるようになって、たった一人で図書館で過ごしているうちに眠ってしまった、といったところだろう。しかしこの映画ではここまで、彼女が机で眠っているカットがあると、その前の場面は決まって「夢」だった。そして、あのアメリカの大学教授の話は、やはりどう考えてもご都合主義的すぎる。
だとすれば、アメリカの大学教授と出会った場面から、ついに長引いた不倫関係を解消したところまで、その一切がヘウォンの夢で、彼女は未だ、不倫関係を処理できていないとも考えることができる。この解釈はかなり強引であるけど、ヘウォンが眠るカットが最後に挿入されることで、少なくとも、この映画全体のどこまでが夢でどこからが現実なのかあやふやであるという感触が強まることは間違いないと思う。
このような、全体としてなんともつかみどころのない感じの映画なのだけど、男女関係のいざこざだけは、妙に生々しい。