(昨日からのつづき。柴崎友香『ドリーマーズ』について。)
●昨日のつづきに入る前にひとつだけ批判的なことを書く。「ドリーマーズ」は「群像」に掲載された時のバージョンとちょっと違っている。最後の方で魚住さんに電話して父の夢の話をした後のところで、《総合的には、わたしはうれしそうだった》から、《総合的には、わたしはうれしいと思った》に変わっているのは、どうなんだろうと思ってひっかかった。全文を照合したわけではないのでどのくらい書き直しているのかはわからないけど(大きな変化は「マイケル・ジャクソン」が「少年隊」になってるくらいだと思うけど)、この部分は読んでいてひっかかったので、比べてみた。その後に《父に、話したいと思った》が付け加えられているのは、簡単には良いとか悪いとか言えないけど…。《わたしはうれしそうだった》で、語るわたしと語られるわたしの距離(乖離)がいきなり大きくなって、次の文の《泣きそうだった》でまた唐突に縮まる(重なる)、そのでこぼこした振幅の大きさがここではリアルだと思ったのだが。
●「クラップ・ユア・ハンズ!」は幽霊が出てくる話だが、実際に幽霊の出てくる場面よりも、主人公がポテトチップスを買いにスーパーへ行く場面の方が、不思議と非現実的な感じがする。《わたし》がスナック菓子の棚まで歩く途中、卵の棚の前の通路の真ん中で《もう小学校に行けそうな、体の大きな子ども》が座り込んで大声で泣いている。
《こんなに泣き声が響き渡っているのに母親は探しに来ないんだろうかと店の奥のほうを覗いてみると、同じくらいの大きさの男の子が、とても早いスキップ、というか横向きだったので変則的なサイドステップでこっちへ来るところで、あっという間に接近してわたしの腰のあたりに思いっきりぶつかった。
「いてーな」
と、言ったのはわたしではなくその子どもで、もちろん謝らないで、泣いている男の子の手を無理矢理引っ張ると、引きずるように反対方向へ歩いていった。
「いてーな」
わたしは、真似して言ってみた。隣にいたおばさんが、ほんとに最近の子どもはねえ、と言った。籠には高野豆腐が入っていた。》
この場面の夢のような不思議な感触は、座り込んで泣いているにしては子どもが大き過ぎること、もう一人の子どもの出現の唐突さと動きの不可解さ、その子どもが「同じくらいの歳の」ではなく「同じくらいの大きさ」とあくまでサイズとして捉えられていること、「隣にいたおばさん」の唐突な出現と、その籠のなかの「高野豆腐」への意味不明な注目(この小説では頻出するポテトチップスよりもこの「高野豆腐」の方が印象的だ)、等からきていると思われる。つまり、大きな子どもが泣いていること、子どもがぶつかってくること等は、それだけでは非常識ではあっても出来事としてありえないわけではなく、その出来事の記述のされ方、つまり一人称の《わたし》の、その出来事との距離のとり方こそが、この場面の不思議な感触を生んでいる。この出来事は、《わたし》に、子どものころに見た怖い夢を思い出させるのだが、むしろ、この出来事によって夢を思い出すというより、夢の記憶(の潜在的な作用)こそが、この(現実の)出来事に「夢のような感触」を与えているというべきなのではないだろうか。
「クラップ・ユア・ハンズ!」の幽霊を見る《わたし》は、それをそんなに怖がっているわけではない。むしろ、幽霊に気を使って(そこは本来幽霊のいた場所なのだから)、彼女(女性の幽霊)に自分の存在を気づかせないようにする(「ドリーマーズ」でも《わたし》は夢のなかの死んだ父に気づかれないように気を使う)。《わたし》にとっての恐怖は、幽霊よりも「怖い夢」の方にある。非現実的な出来事が恐ろしいというよりも、現実的な出来事がそのまま「夢の方」へと引っ張り込まれてしまうことが恐ろしいのだ。出来事そのものの非現実性ではなく、ある出来事が、世界の一つ一つの細部が、現実を構成するさまざまな意味の関連の網の目から外れて、地盤を失い、位置を失ってしまうことが恐ろしい。それ自体はきらきらしたものである世界の細部が、意味の関連を、記憶との関係を、他者との共有性を剥奪され、地盤や位置を失ってしまうことこそが恐怖なのではないだろうか。世界の細部やその感触は、安定した、あるいは紋切り型の意味的関連から外れたときにその輝きを顕在化するが、しかし、そこから完全に外れ切ってしまえば、世界は一転して恐怖の場となるしかない。世界のきらめきは、恐怖と裏表の、ぎりぎりの場所に見出されるものなのだ。「クラップ・ユア・ハンズ!」で、唐突にぶつかってくる大きな子どもや、おばさんの籠のなかにある高野豆腐は、世界の意味的関連の内部に位置づけられない不穏なものたちであり、それに比べれば、幽霊やポテトチップスはずっと、意味的関連に近い世界にいるのだ。そしてこの作家の小説において、そのような恐怖を押しとどめ、主人公を意味の関連する「こちら側」の世界にとどめるのは、やはり友人たちとの関係なのだ。
そしておそらく、その時、他人のまなざしは非常に大きな役割をもつだろう。半ば自分のものであり、半ば他者のものである他人のまなざしは、《わたし》を世界の「こちら側」に、意味的な関連と人間的な感情が共有される側へと結びつける力をもつものであり、同時に、世界を無意味と無秩序の側へ叩き落し、恐怖の場へとひっくりかえす力をもつものでもある。だからこそ、「寝ても覚めても」の《わたし》は、隣で眠っている恋人のまぶたを、無理矢理にこじあけずにはいられないのだろう。
●人間の「頭のなかにある現実」にとって、夢と現実的知覚とは、同等の権利をもった現実の構成要素であろう。人間にとっての「現実」とは、「頭のなかに現実として構成されたもの」であり、そうである以上、夢もまた現実の一部に含まれる。外的な知覚と内的な夢とは、どちらが主でどちらが従とはいえない、現実を構成する同等の強さをもった要素なのだ。感覚的な強さとしても、夢だから必ずしもあやふやだということはいえないし、知覚だから確実だとも言い切れない。人間にとって、夢も知覚も感覚という同一平面上に結像するという意味では同等のものであり、それを峻別するのは、感覚を受け取ったあとで作動する反省作用であり、因果関係の精査による事後的な峻別でしかないだろう。
私と誰かが並んでいれば、二人には同じ風景が見えているはずだが、私と誰かとが並んで眠っていたとしても、同じ夢を見ているとはいえない。夢は私にしか見えていない。しかしそれは本当だろうか。「ドリーマーズ」では、《わたし》と同じ、おっさんや高島屋や信号機を見ているえみ子が、それをどんな風に見ているのかを知りたいと、《わたし》が思う。《わたし》とえみ子は同じものを見ているが、えみ子の《頭のうしろ》にひろがっているものを知らない《わたし》には、えみ子に見えているものが見えていないかもしれない。一方、《わたし》とマサオが並んで眠っているとき、二人とも、そのときテレビから流れていた「金本」の夢を見ていた。まったく同じ夢とはいえないにしても、同じ場所で眠っていると、夢もまた同じものから影響を受けるのだ。だから、夢と言っても、まったくバラバラに別のものを見ているとは言えない。夢であろうと現実的知覚であろうと、私と誰かとは、ある部分を共有しているし、別の部分は共有していない。現実が完全に共有されているわけではないのと同様に、夢もまた、完全に孤立したものではない。
だから我々は、現実に見たものについて語るのと同じように夢について語ることができるし、逆に、夢について語るように、現実に見たものについても語らなければ、他人に通じない。語るというのは他者に向けた行為であり、語ることによって「見た」という経験(の一部)を共有し、相手との関係を築こうとする行為であろう。見たものすべてについて語ることはできないし、語ったことすべてが相手に理解されることもない。しかしそこでも、見たという経験のごく一部でもが共有されることで、世界の細部がかろうじて意味的関連をとりもどし、世界が恐怖の場へと雪崩落ちることが防げるのだ。そもそも小説を書くという行為それ自身が、見たもの(経験したこと)を、なにかしらの形に加工したものとして、誰かに向けて語るということであり、その、誰とも知れない誰かとしての読者との関係において、語られた経験に何かしらの意味的関係を取り戻そうとする行為だとも言える。見たものを語るということは、誰かに見たことを伝えようとすることであり、見たことを伝えようとすることは、その相手と何かしらの関係を築こうとすることであり、その誰かとの関係のみが、世界の恐怖の場への転換を抑える。
「ドリーマーズ」で《わたし》は、自分が見た夢について、沙織やマサオや森ちゃんと語り合う。それによって、夢で見たものを、この現実的な意味の関連のなかに位置づけることができる。夢は、現実を構成する一部分となる。しかし、沙織やマサオや森ちゃんとの関係のなかでは、夢で見た「父」についての部分を語ることができない。《わたし》が夢で見た(夢によって経験した)、「父についての何か」は、この関係のなかでは伝えることのできるものではないようなのだ。語ることのできない「それ」を、《わたし》は目のなかから出てきた不思議な睫毛の塊として物質化して取り出してみせるが、それは不可解な物質でありつづける。
夢のなかで経験した「父についての何か」に、現実的な意味との関連をつけてくれるのが、魚住さんとの関係ということになろう。それは前もって、既にあるものではない。《わたし》が魚住さんに向けて夢の話を語るという、その行為によって、そしてその話を、相手が受け取るという事実によって、その関係は新たなものとして、そこに生まれる。次の引用部分が、そのことを示している。
《そういう返事を聞くとは思っていなかった。言ってみたかっただけで、どういうふうに思われるか、なんの予想もしていなかった。他人が、このことについてなにか言うなんて思わなかったから、びっくりした。》
その、新たな関係の成立によってはじめて、不定形であった「父についての何か」は、構成された現実のなかに位置をもち、現実の一部となる。魚住さんによる反応が凡庸なものでしかないことは、ここでは大した問題ではない。そのことが語られ、受け取られ、関係が成立し、その関係が夢のなかの「ある経験」を支えるものとなることそのものが重要なのだ。
(もうちょっと、つづく。)