●お知らせ。VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイの第四回めをアップしました。「苦痛トークン」の具体的なイメージが示されます。
苦痛のトレーサビリティで組織を改善する 4: 苦痛トークンとはどんなものか
https://spotlight.soy/detail?article_id=zh7koz2xc
What is Pain Token? / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (4)
https://vection.medium.com/what-is-pain-token-c46bba1cad85
●『ペドロ・バラモ』を構成するたくさんの断片(自分で数えたわけではないが69あるという)は、一人称で記述されているものもあれば、三人称で記述されているものもある。ぼくの見逃しがなければ、フアン・ブレシアドが登場する場面はすべて彼の一人称で語られ、その他、スサナ・サン・ファンには一人称で語るパートがある(スサナの棺桶は、フアンとドロテアの棺桶に近く、スサナによる一人称は、スサナの語りをフアンが聞いているので、フアンの一人称だと解釈することも可能だが)。子供時代のペドロ・バラモが語られるパートで、限りなく一人称に近い記述がなされるものがあるが、そこでペドロは《彼》と呼ばれている(だが、これらのパートは成人したペドロを語る三人称の記述とは明らかにトーンが異なって彼の内心にとても近く、「彼」を「わたし」と書き直しても違和感はない)。レンテリア神父のパートのいくつかは、きわめて内省性が高く、三人称記述だが(ペドロの子供時代に次いで)一人称性が強いと言える。一方、インディオたちが山から下りてくる場面など、誰の視点か分からず、三人称性の高い場面も存在する。また、ドロレス・プレシアド、ペドロ・パラモ、スサナ・サン・ファンには、「《》」で括られて、内心が直接露出する部分がある。幽霊たちが長々と「語る」場面は、そこだけ取り出せば一人称的記述ともいえる。
無理矢理に整理すれば、(様々な幽霊と出会う)フアンの語る一人称部分と、死後のスサナの語りをフアンが聞いているというスサナの間接的一人称部分、そして、いわゆる(過去となった)現実を示している三人称の部分という、三つくらいに語りの層を分けることはできそうだ。しかし実際に読んでいる感触としては、断片ごとに語りと対象とのさまざまな距離や関係があり、それが入り交じって、小説全体として自由間接話法に近いという方がよいと思われる。
●余所の土地からコマラへやってきて、様々な幽霊に出会い、自分が死んだ後にも幽霊たちの声を聞きつづけるフアンのパートは、時系列順に並べられている。だが、彼に語りかける幽霊たちの話や、三人称で語られる「現実」部分がたちあがってくる順番が、時系列通りではない。ネットワーク状にひろがる幽霊たちのさざめきに、継起性を与えているのがフアンという存在であり、その意味でも彼は観客であり、読者の代理であろう。たとえば、一人の人間が、自分が存在するより前の歴史を知ろうとする時、出来事の記憶-記録を追いかけ、それを経験する順番は、歴史的な順序とは異なることになるだろう。まず十年前の事件を知り、それが五年前の出来事に発展していくことを知る。しかしその源流には十五年前の出来事があったことを、後になって知る、ということがあるとすれば、それは、最初から整理された、十五年前→十年前→五年前という流れを知ることとは、まったく別の経験となるだろう。歴史的な順序と経験的な順序の「異なり」こそが、あらすじに還元できない作品に固有の経験をつくりだす。つながり方がよく分からない断片にひとつひとつぶつかっていきながら、その都度、描かれる像や先の展開の予測のありかたが変化していく。