●メモ。『来るべき内部観測』(松野孝一郎)「量子論からの決定性」では、非生命的な物質(ここでは光子)において、すでに「一人称行為体」としての振る舞いの端緒がみられると書かれている。
《遠くの星を発したもともと一個の光子が途中で二手に分かれる分岐を経由し、別々の光路を通過して、地上で物理学者が用意した装置において再び合流するとき、その合流によって初めて一個の光子の到着が確認された、というのは三人称現在形では理解しがたい現象でありながら、否定しがたい事実でもある。その否定しがたい事実の担い手が、量子絡みである。地上の物理学者は、別々の光路からやって来た光子の分身が合流できるお膳立てを用意してはいるが、分身から再び一個の光子にまとめあげることを実践しているのは、光子自身であって、お膳立てをした物理学者ではない。》
《ここにおいて、一人称行為体としての量子絡みが関わることになる。三人称現在形に忠実な理論の枠内で理解することが困難だから、という理由で一人称行為体を否定し去ることはできない。当の一人称行為体の肯定は間接的ではあるが、あくまで経験的である。その肯定に至る一つの道筋が、完了形に登録された行為体の参照を三人称現在形での記述を介して、というものである。それを可能にするのが、「量子絡み」と称する名詞の介在である。》
《名詞はいかなるものであれ、三人称現在形の記述で参照できる。しかし、名詞は常に恒存・不変の対象を参照しているとはかぎらない。名詞は恒存・不変の対象を参照する、と約束しても、それを守らせる強制力は言語のうちには見あたらない。われわれにとって言語は、あくまで便宜的・実用的である。》
●しかし、それはあくまで端緒であり、単発的なものであるとされる。そこから、「持続する一人称行為体」へと至る過程が明らかにされなくてはならない、と。
《これまで量子論の枠内で経験的に明らかにされてきたのは、一人称行為体の端緒の出現が物質現象のうちに認められるということであった。その典型例が、量子絡みによる同時相関の実現である。しかし、この実験で一人称行為体が関与していたとみなされる場面は単発的であり、一過性でしかなかった。一人称行為体の出現が経験的に確かめられるとすれば、それは、単発的であり一過性でしかないとみなされていた端緒から、持続する一人称行為体に至る道筋が明らかにされてからである。》
《一人称行為体への道を塞がないで確率を守護しようとするなら、残る道は、確率を一人称行為体にとっての確率だとすることである。それが可能になるのは、一人称行為体の持続が前提となる。一人称確率を可能にする前提を担うのが、条件付き生起確率を1とする一人称行為体の登場である。条件を課すのは、あくまで経験世界それ自体である。これは、物理学者という主観にとっての確率が有意であるのは、その主観の持続する同一性が確保されているときにかぎられるとする、とすることと同義である。》
《鍵を握るのは、一度現れた持続に向けて端緒を取り巻く周囲状況である。その端緒にとって、周囲状況が好都合であれば、端緒から持続への道は開けてくる。一方、周囲状況が端緒にとって不都合であれば、それで沙汰止みとなる。》
《この周囲状況の素性をまともに取り上げてきたのは、量子論が興る以前の一九世紀の熱力学であった。》