●アニメ版『虐殺器官』をDVDで観た。伊藤計劃アニメ化三部作のなかでは一番面白かった(というか、他の二作の出来が悪すぎた)。原作と異なるラストについても、アニメ版はアニメ版として完結しているし、原作を読んでいる人には「余韻を残す」感じになっていて、まあ、いい感じではないかと思った。以下、ネタバレしています。
(伊藤計劃の小説は、物語としては典型的な形---探偵的な役割を担った主人公が、核心的な謎を握るある人物を追ってゆくことを通じて、次第に様々な事柄が明らかになっていく---をとっているので、そのユニークさは、世界設定や人物たちの思弁的な会話、あるいは様々なガジェットというところにあらわれる。そして、アニメでは、その世界設定や思弁的な会話を充分に表現するのは難しい。ただ、ガジェットに関しては、アニメの方が魅力的に造形しやすいのかもしれないと思う。)
サピア・ウォーフ仮説に対するチョムスキーの普遍文法、具体的にはピンカーとか『言語の脳科学』(酒井邦嘉)あたりが元ネタになっているのだろうか(あと、『CURE』か)。支配的なアメリカ側が、最新の(生政治的)テクノロジーを駆使した緻密な管理を行うのに対し、敵対する側(実は、敵対していなかったというオチなのだが)は、「言語(文法)」というローテクを用いて、ヒトの脳の古層に埋め込まれた「虐殺器官」を誘発することでそれに抗する、と。支配する側のハイテクに抗する、抵抗する側のローテクの強み(これ自体はよくある構図)。しかしそれは偽の敵対であって、実は現状を相補的に支えるものであった。ざっくり言えばこういう図式になっている(そのローテク側の根拠が、チョムスキー的な普遍文法)。
そして、敵も味方も実は相補的であったという構図(世界の均衡)を破壊するのが、一人の「気高い志をもつ女性」の存在である、と。革命家は「謎の人物」とは別に位置にいた、と。
(あと、ハイテク(アメリカ)対ローテク(反アメリカ)という対立の中間くらいの位置に、ハイテクに対するヨーロッパ的抵抗(半ハイテク?)という層---計数されざる者たち---が挟み込まれていることが、物語の厚みになっている。結果として、運命の女性はヨーロッパに存在したわけだし。)
一方に、子供を殺しても感情的に全くブレることなく、腕をもぎ取られても痛覚がなく、死の恐怖さえもブロックされ、常に感情がフラットでいつづけられるようにテクノロジーによって調整された兵士がいて、他方に、脳の古層にある虐殺器官とされる部位に言語(文法)を用いてアクセスされることで、自動的に殺し合うようにされてしまう人々がいる(そのように仕掛けている反逆者がいる)。前者には「クオリア」に対する、後者には「自由意思」に対する、強い否認の感覚が感じられる。いわゆる「生政治」的な主題よりも、ぼくにはこちらの方が強く気になる。
この感覚が、そのまま次作の『ハーモニー』に発展し(ミァハの望む世界は、「虐殺器官」という作品から受けるクオリアと自由意思に対する敵意の感触に直接つながっている)、そして最終的には、クオリアも自由意思もない「ゾンビ」という形態に行き着く(『屍者の帝国』のプロローグ)。クオリアや自由意思が、ネットワークへと拡散し、あるいは機能へと解消されて、非中枢化によって消えてしまうのが『ハーモニー』だとすれば、魂が限りなく貧しく縮減、縮小することで点になって消えてしまうのが「ゾンビ」という形態だろう。伊藤計劃という人は、クオリアと自由意思が本当に嫌いなのだなあと感じられる。「嫌い」というより、それらを強く否認したいのだ、ということか。
その否認は、一人称性が否応なく強制的に問題となってしまう場面を設定しつつ、なんとかしてその一人称性から離脱したいというその強い思いが、一人称の物語によって語られる、という形で現れているのではないか、と。