●アニメ版『ハーモニー』を改めて観た。アニメ版ではラストに原作とは異なる結構大きな改変があって、伊藤計劃のファンからは大抵評判が悪い。アニメ版で主人公トァンは、ミァハが望んでいる「すべての人間が意識というものを失う」世界は受け入れるのだけど、大好きなミァハが消えてしまうことは受け入れられない。ミァハはミァハのままでいてほしいという理由から、ミァハのままでいるうちに(意識を失い他者との完全なハーモニー状態になる前に)彼女を殺す。ミァハは、(トァンにとっての)ミァハとして死ぬ。世界の匿名化は受け入れても、ミァハの匿名化は受け入れられないという逆説(トァンのエゴ)。
しかし原作では、トァンがミァハを殺すのは、ミァハの行為によって友人(キアン)や父が死んだということを、どうしても看過できないからだった。ミァハの望んだ世界は実現させてあげるけど、その世界をミァハには与えないということが、友と父の死に対するミァハへの復讐だ、と。そして、ミァハはトァンに考えに納得し、トァンが自分を殺したことを受け入れる(撃たれた後、これで許してくれる?、と言う)。この改変は原作を基準とすれば受け入れ難いかもしれない。アニメ版のトァンは、自分のなかにある「幻想のちっぽけなカリスマ」としてのミァハに囚われつづけ、それを越えることも出来ずに、自分のなかのミァハを生かすために、現実のミァハを殺す。トァンは、自分自身が囚われている鏡像的愛憎関係からまったく自由になれていないまま終わる。原作の方では、トァンがあくまで「自分の意志」でミァハを撃ったという点に重きが置かれるのに。けど、小説とは別物の、アニメとしての『ハーモニー』という作品を考えるならば、この結末もそれなりに納得のいくものだ(そもそもぼくは原作『ハーモニー』をあまり優れた小説だと思っていない)。
この物語ではこの後、人類は意識(意志)を失ってしまう。原作ではここで、コントラストとして、人類が今まさに失おうとしている(自らの行為を自律的に選択するものとしての)「意志」を強く示している。でもアニメでは、意志というより、人が「個としての意識」を失うことに重きが置かれているから、ここでエゴ(利己的欲望)こそが強調される。おそらくアニメのスタッフたちは、意志(選択・決断)というものをそんなに信じていなくて、「わたし」というものの実感として、利己的欲望の方を強くリアルに感じているのだと思う。
ただ、もう一つ、最後の最後に改変があって、人間たちから意識が消えたはずの世界で、人間が意識を持っていた頃の(この『ハーモニー』という)物語を読んでいる少女が出てくる。つまり、人の意識が完全にゼロに、真っ白になったわけではない、と。ふたたび意識を持っている人がこの世界にぽつぽつと生まれ始めるのだ、という含みをもたせて終わっている。もし、伊藤計劃が生きていたのなら、むしろこちらの方が受け入れ難いと思うのではないだろうかと思った。作者には(ミァハと同様に)、すべてを真っ白にして終わりたいという強い欲望があったのではないかという気が、ぼくはする。哲学的ゾンビになりたかった、と。
逆に言えば、アニメのスタッフたちは、伊藤計劃の「意識を真っ白に戻したい」という欲望を受け入れ難かった(納得できなかった)のだろうと思う。
●なんかすごく楽しそうで、行きたかった。日曜は基本、8B33の会合があるので行けなかった。『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』 7/2いな暮らし上映&ライブ写真
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