●アニメ版『屍者の帝国』も改めて観た。長くて複雑な話を二時間でみせるために原作の要素をいろいろ省いているのは仕方がないとして、意識=菌株という部分を抜いてしまったら、そもそものこの物語の意味がなくなってしまうのではないかと思った。おそらく意識=菌株というアイデアは、円城塔による伊藤計劃への批評であり、完全な合理性による完全な協和(ハーモニー)によって意識が消えるという『ハーモニー』から一方踏み込んで、それを乗り越えるために持ちこまれたアイデアだと思われる。つまり、意識=菌株がないと『ハーモニー』の二番煎じになってしまう危険がある。すべての人間を屍体化することで争いを失くそうとするMの行動は、完全な協和と合理性によって混乱を回収しようとする『ハーモニー』と同じパターンと言えて、それに対して、ザ・ワンが主張する意識=菌株説があることによって、前作に対する批評となっている。でもアニメ版ではそれがないから、ザ・ワンがたんに若い体と花嫁を求めているだけ、みたいになってしまっている。
人間の意識は(脳によってではなく)、人間のなかでだけ活性化されるある種の菌株の働きよって生じる。人はそれを、自分の意志だと勘違いする。腸内の細菌が、人間と共生し、人間の栄養の消化、吸収になくてはならないのと同様に、その菌株は人間と共生し、人間に意識を与えて、人間の生存確率を高めることに貢献している。意識は、多としての菌たちの生態系の結果として生じるのであり、様々な矛盾する行動パターンをもつ菌株たちの多くの派閥のコンフリクトから生まれる。ここでは、分析哲学で言う「随伴現象説」が採られていて、この菌株たちのもたらす物理パターンに、意識が随伴するということになっている(つまり、菌株たちの意識が人間を操作・支配しているというのではなく、菌株たちの行動パターンに随伴して、結果として意識が現われているということになる)。これが、『屍者の帝国』という作品で採用されている「心身問題」への解答であり、『ハーモニー』における、自明で選択のない合理性と、他者との完全な協和により、「意識が消失する」という、やや粗い説明に対して、より高い解像度の理屈がつけられたということになる。
屍体化の技術とは、様々な行動パターンを示す菌株の派閥のなかの、ごく少数派である「拡大派」のみに通じる「言語」を用いて、拡大派の行動を制御し、それによって死者の行動を自由にコントロールする技術だとされる。拡大派は菌株全体では少数派であるが、人間の死後も人のなかで生き続けられる。だから、死後の人間のみ、拡大派の菌株に働きかける言語によって書かれた(ソフトウェアならぬ)「ネクロウェア」によって思い通りに動かすことができる。『屍者の帝国』の世界では、死者(死体)が重要な兵力や労働力として社会に組み込まれている。
ザ・ワンと対立するヘルシングは、言語の力で死体をコントロールできているのだと考えているが、そう見えるのは、死体のなかでは既に「菌株たち(精神)の生態系」と言えるものが壊れてしまっていて、ただ拡大派だけによって一元的に支配されているからだと、ザ・ワンは主張する。この主張は、意識を消失させてしまうくらいの「完璧な協和」があるかのように考えられている『ハーモニー』への批判にもなっている。さらに、二十世紀的な、人間=言語中心主義に対する、(コンピュータやプログラム言語を媒介とした)、二十一世紀的な、言語(記号過程)の自然化という流れとも対応する。
(精神が、菌株たちの生態系でできているということは、菌の感染によって個の「菌株の生態系」の変化もあるということで、けっこうアニミズム的だと言える。)
そして、ザ・ワンは、解析機関(コンピュータ)を媒介として、菌株(X)によって発生する人間の意識と、その構成要素である菌株(X)自身の意識を繋ぐ、円環状のフィードバックループをつくろうとする。ここはとても円城塔っぽい。以下、原作から引用。
《形成されるのはフィードバック・ループだ。人間が解析機関にプログラミングを施し、解析機関はネクロウェアの設計を行い、ネクロウェアはXとの対話を行い、Xの活動は屍者の行動を規定する。屍者による経済活動は生者の生活を変容させ、解析機関へのプログラミングを変化させる。》
《循環が構成されて言葉が整理されれば、Xは自分たちの活動と外からやってくるネクロウェアの間に関係を見出すだろう。》
《互いが互いの意識となるなら、その際の、意識の本質、起源とは---》
《ない。エデンは失われた》
《人間が魂と呼ぶのはその循環の中の流れ、存在の大いなる循環だ。》
と、まあ、ここまでは含めなくても、ヘルシングザ・ワンとの思想的な対立はちゃんとみせないと、『屍者の帝国』にはならないのではないか、と思った。
(追記。昨日の日記でアニメ版『ハーモニー』のラストに、『ハーモニー』の物語を読む誰かが出てくるのは、作者の伊藤計劃には受け入れ難いのではないかと書いた。しかし、あのラストの少女は、『屍者の帝国』に書かれた次の部分に対応しているのかもしれないとも考えられる。《わたしは、フライデーのノートに書き記された文字列と何ら変わることのない存在だ。その中にこのわたしは存在しないが、それは確固としたわたしなるものが元々存在していないからだ。わたしはフライデーの書き記してきたノートと、将来的なその読み手の間に存在することになる。》この記述を、「小説の登場人物であるわたし」の自己言及だと読むと、とたんに退屈になる。これは、わたしもあなたもそうである「わたし」一般---妙な言い方だけど---についての記述なのだと読まなければならないと思う。『屍者の帝国』という物語が、それを示しているように思う。)