●東京都美術館で「エピクロスの空き地」を観た。東海道線が人身事故で止まってしまって、上野まで行ったのに展示を一つ観る時間しかなかった。
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「エピクロスの空き地」は、観ていて飽きない、とても楽しい展示だった。空間のなかで作品を発見していき、作品を発見することで空間を再発見する、みたいな感じで。それぞれの作品が、自分を自分自身としてあらわしているのと同時に、空間をつくるパーツにもなっている、というか。楽しいというと軽くみているように聞こえるかもしれないけど、真面目な展示はけっこうあっても、楽しい展示はそんなにはない。楽しい感じがするというのは、いろんなことが上手くいっているからだろうと思う。
「エピクロスの空き地」のコンセプトについては、やや懐疑的だったし、今も懐疑は残る。アルチュセールの「偶然性唯物論」は今もまだ有効なのだろうか。エピクロス(ルクレティウス)の原子の雨のクリナーメンは、例えば二重スリット実験における干渉縞について何かを語り得るのか。さらに、アルチュセールとポスト・メディウムと郡司ペギオと高橋悠治とは、そう簡単に一直線では結べないのではないか、これらを並べる必然性、結びつけるロジックについては語られていないのではないか、など。
これらの疑問は疑問として残るとしても、展示が上手くいっているということは、おそらくそこに何かが成立したということなのだろうと思う。常識的に考えれば、狭い空間のなかに作品を詰め込み過ぎであるはずなのだけど、各々の作品の作用によって互い違いにされた異質な空間が、多層的に折り重ねられているから、息苦しい感じがなく、むしろ、作品のあり様を一つ一つ発見していくたびに空間がひろがっていく感じがした。意図的に、空間に作品をキツキツに詰め込むことで密度をつくろうということとはまったく異なっている、多次元的迷路のような空間。なんというか、一人の作家(一つの脳、一つの身体)が「多層的な空間をつくろう」と思ってつくったのではつくれないような多層性が、成立していたのではないかと思う。
コンセプトに疑問があると書いたけど、むしろコンセプトを論理的にキチキチに詰めていないからこそ、古典的な論理では起こり得ない干渉のようなものが起きているのかもしれない。作品の性質や傾向にかんして、かなり異なる作家が集まっているのに、雑多な感じがしないし、かといって、きれいに均されている(あるいは、響き合っている)というわけでもない。各々が違う方向を向いているからこそ、互いに食い合ったり、変に同調したりすることなく、空間の複雑な噛み合いが生じて、全体としても面白い空間になっていたのだと思う。
個々の作品のたんなる足し合わせでもなく、全体として一つの明確なコンセプトや、今までなかった何かしらの新奇な文脈が提示されているのでもなく、個々の作家や作品の偶然の出会いが、単純な足し合わせ以上のもの(この展覧会に固有の質)を生み出している。うーん、つまりこれは「エピクロスの空き地」のコンセプト通りということか。こういう試みが、現代美術の文脈主義を超え得る、新しい流れとなってくれたらうれしいと思った。
(一つ、分かりやすい例として。新関淳による太陽と地球のホログラフィの作品があるのだけど、ぼくは当初、地球の方に気づいていなくて、作品を観て回ってしばらく時間が経ってから、小っちゃい地球に気づいて、気付いた瞬間に、展覧会の会場に、まったくスケールのことなる別様な空間が重ね書されて、おおっ、と思った。)